沖縄人のごく日常的カルチャーショック。

 

うちなー的沖縄

沖縄人のごく日常的カルチャーショック。

那覇市内の食堂でのことばのだが、客は明らかに沖縄の人間ではなかった。会話はサッカーの試合のように、ハーフタイムを挟んで前後半に分かれていた。まずは前半の攻める客と防御の店員の会話。「ざる一枚」

「はーっ!?ざつをですかぁ、ざるを一枚ですかぁ」

「ざる、ざるそば一枚、だよ」

「・・・・・!?ざるそば一つのことですかぁ」

「・・・・・」

店員さんは、<はじめからそう言えばいいのによ>という表情があり。客は少しムッとしているようだ。下手をするとざるそのものを出されかねないような会話であった。

攻めあぐねる客、守りに不安な店員だった。続いて、攻守ところを変えての後半戦。サポーターたちは自分の注文した品を食べつつも、どこかで乱闘シーンを期待している「そば湯、ね」「はーっ」「そば湯、そば湯をくれ」店員は小首をかしげながらお茶を運んできた。ややムッとした客は、「そば湯だよ、そ、ば、湯!」「そば・・・・ゆ・・・・ですかぁ。何ですか、そばゆって」「そば湯を知らないの、あきれたなぁ。もういい!」客は心底からあきれたような顔をして店を出て行ったが、店員はその三、五倍くらいにあきれた顔をして、<変な客>という表情で客の後姿を見送っていた。

沖縄の食堂のメニューの特長は、とにかく品数が多いということだろう。極端な食堂ともなると、壁一面どころか壁二面にメニューがあふれ、ついには壁三面という過激な食堂もあったりする。どの席からも見れるようにということなのか、同じメニューが顔を並べている場合もある。壁のメニューがインテリアになっていたりする。

沖縄ものだけにこだわればいいのだろうが、客のニーズに応えるためにと準備されたのが、ざるそばであったりするわけだ。沖縄では、そばと言えば沖縄そばのことであり、本来の蕎麦ではない。

永年にわたって沖縄そばに慣れ親しんできた沖縄人の悲劇的は数多く存在している。東京あたりに初めて出掛けた沖縄の人間の失敗談は、このコーナーの分量からしたら、おそらくは数十回分に及ぶことになるだろう。電車に向かって手を挙げて停車を促した人。電車内で降車ブザーを必死に探した人。古くは洗濯ひも時代の頃のバスを想定して壁をまさぐった人。大阪での「指切り注意」という電車ドアの表示に心の底からしびれるようにして恐怖した人。

 

沖縄人のごく日常的カルチャーショックー2

 

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沖縄人のごく日常的カルチャーショックー2

とにかく異文化ののである。電車話とおなじくらいの比率を占める割合が高いのが食べ物に関すること。ざるそばの上につゆをかけたという話は方々で聞く。究極のざるそば事件を引き起こしたのは某有名人である。蕎麦屋に入ると、昼間だったのだろうか、他の客はほとんどがざるそばとビールを注文している。昼からビールを飲むなんて。沖縄ではあり得ない光景である。初めてのことだし、同じものが何かと都合がいい。これは外国でも同じことがいえるのだが、とにかく異質の文化圏での食べ物の注文は困難を極める。出されてきたざるそばに、何らも躊躇することなくつゆをかけた。当然のようにつゆはざるのざるの隙間から漏れてくる。漏れ方が普通の漏れ方ではない。見る見るうちにつゆがテーブルにつゆが広がる。常人は、ここで、自らの失敗に気付きうろたえる。ところが、我が愛する人物はすかさず、「おばさーん、これ、漏っているよぉ」と店員に声をかけたのである。おそらくは店の人がうろたえたに違いない。普通だったら笑って済ませるところを、いきなり漏れていると言われればカウンターパンチを喰らったも同然だ。カルチャーショックを受けたのは某人物ではなく、ここでは店の人だったに違いない。

逆のケースもある。冒頭のざるそば一枚もそうなのだが、東京のあたりからの観光客が沖縄の食堂に入っての失敗例はけっこう多いと聞く。「おかず」と「味噌汁」と「飯」をトッピング状態で注文したら、「おかず」と「汁物」と「飯」、おおきな「味噌汁」と「飯」、それに大盛りの「飯」が出されたという具合だ。それぞれが定食のスタイルをとっているせいである。客は当然のように驚き、ひとり自嘲気味に片口笑い小するしかない。そして沖縄の印象の一つに食べ物屋での恐怖が残る。

あっ、某有名人たちが、それは大工哲弘さんが二十歳の頃のこと。

 

タックルされて死亡。

 

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タックルされて死亡。

世界中には、ミニ国家が数多く存在してる。モナコであるとか、ヒリテンシュタイン、ブルネイ、モルジブ、サンマリノとかだ。約二万人くらいだ。人口数からすると、なんだか頼りない感じがしないでもないが、それはそれで意外といいかも。コミュニケーションの面からすると、風通しがよこなるはずだ。国の端っこに居ながらも、Aさんちのおかずは昨晩も豆腐チャンプルーだったとか新婚さんのBさんちは那覇空港離婚どころか、経由地の関空離婚らしいとかなんとなくゴシップが満ちあれていそう。そうなんだ、狭い会社にこそゴシップは相応しい。

それはそれで必ずしも悪いことではなさそうだ。極小ではあるゆえの痛快さもある。

ミニ国家ながらも独立を保ってきた琉球は、全国から遅れること八年、一九七九年(明治十二年)に廃藩置県がなされ沖縄県となった。沖縄戦の後に、二十七年間に及ぶアメリカが君臨する時代があったから、沖縄が日本であった歴史は、差し引くと約九十年。つまり沖縄が四十七分の一の歴史を数えてわずか九十年でしまないというのが面白い。それ以外は異質だったということ。そういうことは、いろいろな場面に「沖縄的」現象が首をもたげてくる。それは、ときには哀しくも、しかし、ほとんどが笑える場面の多い。喜怒哀楽は背中合わせの世界であり、それが「沖縄的」なシーンをしばしば醸し出す。

例えば、言葉など。これは沖縄の人間がヤマトで新聞を広げた途端にびっくりしたケース。新聞には「タックルされて死亡」と見出しが踊っていた。ラグビーは格闘技であり、本来が激しいスポーツののだが、練習中にタックルされて首の骨を折ったのだろうか、死に至ったというものだ。ところが沖縄出身のKさんは違う受け取り方をした。彼女は「タックルされて死亡」したと理解した同じ、「タックルされて死亡」どもこれほど違う。んっ、まったく同じか。

沖縄では相手を叩きのめすことを「タックルスン」と言う。漢字を当てはめると少しはわかりやすくなる。叩き懲らしめる、という具合になる。叩く、打つ殴るという意味だ。この言葉はしばしば問題となることが多い。それは叩き殺すになるからだ。懲らしめると殺すとでは傷害罪か殺人罪の違いがあり、刑法からすれば天と地ほどではないにしろ、相当の違いが生じる。だかr、ラグビーの方は、練習中の事故による「タックルされて死亡」であり、Kさんが勘違いしたのは、懲らしめられて後に死亡の至った「タックルされて死亡」だったのだ。

言葉は文化だと言う。確かにそうだ。沖縄の人間が正確な日本語を話すようになってから、わずか九十年を長いと見るか短いと見るか、実はそこに沖縄の面白さや可能性がゆったりと潜んでいそうな気がする。

那覇の女子高校生は、カモチャーに乗って御通学。

 

那覇の女子高校生は、カモチャーに乗って御通学。

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路上観察の対象として女子高生ほど面白いものはない。

あのルーズソックスは大嫌いだったが、それでも最近は落ち着きを見せてきており、健全なおじさんとしては再び落ちついての観察を開始している。それにしてもルーズソックスの全国的な流行には嫌気がさした。没個性、画一的であり、スーパールーズソックスにいたっては、軍隊のゲートルであり女子高生の軍靴の行進であった。おじさん族をはじめとする全国民は、あんなの見たくないという声を出すべきではなかったのか。

陽は上り陽は沈む。ルーズソックスが終焉を迎え、カラーソックスが路上を闊歩しだした。沖縄も例に漏れず流行を追っている。かつて沖縄の女子高生は堂々とカラーソックスを使用していた。東京あたりから修学旅行生が沖縄を訪れて、当然の事ながら国際通りを歩く。そこで彼女たちが最大の衝撃を受けることになる。「えーっ!うそーっ、信じられなーい」の連発あっただろう。沖縄の女子高生の足元は、多彩な個性を発揮していたのである。それはソックスは白という常識を根本から覆すものだった。ところがここの一つ問題が。ルーズソックス・ファシズムの嵐が吹き荒れる中で、自ら沖縄的個性を捨てての全国均一化への転落は、まさしく沖縄女子高校生たちの敗北であったと思う。

Kiroro,Coccoの後輩たちよ、君たちはそれでいいのか。と、おじさんの怒りはいよいよ止まらない。いやいや、そうではない、沖縄の女子高校生はすこぶる元気だ。それをひとつ証明してみる。

フィリピンに庶民の足ジプニーあるが如く、インドネシアのジャワに自転車を改良したベチャあるが如く、沖縄には世界に誇る軽貨物車という摩訶不思議な乗り物がある。貨物車というくらいだから、主たるものあくまでも荷物ということになっている。荷が主で人は従。

その軽貨物車が抜群に面白い。

荷物のことはさておき軽貨物車は、基本的には運転手を含めて四人乗りである。ということは乗客は三人までということになる。朝の通勤時間、グループの中ではわりと美少女風の高校生が軽貨物車に手を挙げて停める。まず三人乗り込むのだが、それまではどこにどう隠れていたのか。あと二人が、どどど、どどどど、と突入してくる。定員超過ではあるが、でも、それでもいいのである。この手法はタクシーでも用いられるが、その際にはせいぜい一人超過くらいのものであろう。その点、我が軽貨物車は、車は小さいが度量は大きい。一人や二人は大きな荷物と思えば平気なのである、なにしろ、普段の沖縄のおばぁが常連客であり、少々のオーバーは気にならない。

軽貨物車イコール庶民的というのが常識であり、おばぁのみならず、そこらあたりの女子高校生からも支持されているのだろう。高校生諸君からは「カモチャー」と親しまれているくらいなのだから。例えば、雨の日。親切なおじさん車は、肛門を突破して校舎のすぐ側に横付けしてくれるとか。何とも素晴らしいではないか。通学時間帯だけではない。南の島のスコールは授業中にも降る。そうなると傘を準備していないだけに帰りが心配である。ところが心配御無用なのだ。実は高校生と軽貨物車のおじさんは以心伝心ホットラインで結ばれている。実際には電話なのだが。携帯電話とピッチ(PHSの愛称)は互換性を持つようになって、いよいよ結束は深まった。以前に利用したとき、おじさんは次のため用ように、携帯電話番号入りの名刺を配っている。

「もしもし、おじさーん、ワタシ、○△高校のさわやかだけどさー、んーんー、違う、ちーかーじゃない、さやかってば。いま雨が降っているわけよー、お願いこっちまで迎えに着て頂戴」

全国広しとはいえども、ここまでサービスに徹っする交通機関があるだろうか。この形態はどうみてもアジア的風景と言える。機械的に乗り込み、機械的に金銭をやりとりするのではなく、そこには同じ地域に住む連帯感がある。地域といえば、軽貨物車は地域限定である。那覇市内の、それもある一定の地域運行主義をとっている。

それほど広くはない那覇市内なのだが、そこの真和志地域という限られた空間を走っている。同じ那覇ではあるが高台が広がる首里などではまず流していない。一度、カモチャーの最大拠点である農連市場付近から自宅のある首里まで家族全員(荷物プラス四人)で乗ったのだが、首里への坂道で車はあえでいた。車は相当にもがいていた。おじさんも愛車に合わせてあえいでいて、随分と気の毒な感じがした。

面白い話を聞いたことがある。ある集まりに、沖縄演劇界の笑いの女王と呼ばれ、庶民から絶大な支持を得ている仲田幸子をゲストとして迎えたらしい。それはかなり政治的な集会だったのだが、通常の街頭ポスターではなく、軽貨物車のみに車内ポスターを貼った。当日、会場は集会とは無縁そうなおばぁ・おばさんたちが詰めかけた、という。カモチャーは沖縄的だ。こうなればジプニーみたいに超派手なペイントをほどこして自らの存在を主張すべきなのでは。白タク行為ではないかと法的に物議をかもしだしているけどね。

 

 

 

 

 

沖縄の1日は24時間ではない、らしい。

 

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沖縄の1日は24時間ではない、らしい。

インドネシアのバリ島が大好きで、よく出かけている。そこには、常にホームステイをさせてもらっている親しい友人のバリンチュー(バリの人)がいて、空港まで迎えにきてくれることがある。いつものところだろうから、「久しぶりだから空港で迎える」と1秒遅れるくらいの国際電話の向こうが言ってきた。

ところが空港でいくら待っても友人の姿は一向に現れない。時間を間違えたのか、日付そのものが間違ったのか。待てど暮らせどこない。ある程度は慣れているとはいうものの、旅先の空港では不安が募ってくる。おまけに外は飛び跳ねて踊るように元気なスコールである。

話は変わって、バリ島と時差が1時間の沖縄・那覇。

那覇市の市民憲章に「私たちはじかんを守りましょう」というのがある。つまり

市民、あるいは沖縄の人間は時間を守らないから、そのような標語が設けられたのであろう。この「時間を守りましょう」については、筑紫哲也さんが機会あるごとに面白おかしく沖縄の人間を前にして披露する。沖縄の側は、指摘されてはじめてそのことに気付くことになる。人々はやや自嘲気味に笑うしかない。確かにかつては公式の行事でさえ、30分や1時間は遅れたものだ。それを「沖縄タイム」と言う。南国的と言ってしまえば、それだけのことであるが、それにしても悪く言えば時間にはルーズ、よく言えばのんびり、もっとよく言えばおおらか、もっともっとよく言えば自由。

インドネシアには、「ゴム・タイム」というのがある。「沖縄タイム」とほぼ同じような意味を持つている。ゴムは自由自在に伸び縮するというわけだ。たしか彼らは時間を弾力的に運用しているとの感を持つ。突然の雨ならば約束の時間を守る義務はないということを、随分あとになってから知った。バリ島の空港で待ちぼうけを食らわせられたのは雨のせいだった。

 

 

沖縄の1日は24時間ではない、らしい。-2

 

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沖縄の1日は24時間ではない、らしい。-2

以前、那覇から鹿児島であるとか阪神方面への定期船の出航が遅れるのは当然のことだった。午後の二時出航だったから、少し早めの時間の一時四十五分頃には家を出るという人もいたにはいた。結婚披露宴に呼ばれて定刻通りに行ったら、他の招待客どころか、主役の新郎新婦さえも未だだという笑い話はそこら中にあふれていた。

沖縄の人間が東京などに行って、定刻通りにホームに入ってくる電車に対して最初はカルチャーショックの洗礼を受けたりする。それは沖縄のバスがあまりにも時間とは無縁の世界だったという事によるかも知れない。バスターミナルの出発時間は守られているのだろうが、後はズタズタ。バス停の時刻表はほとんど意味を持たないという怒りは、おそらくは旅行者の共通した怒りに違いない。原因は慢性的な交通混雑にもよるものだが、どうもそれだけではなさそうだ。

道路事情ということでの遅れなら、両肩をすぼめるような仕草も時には効果的かも知れない。ところが、これはある人から聞いた話なのだが。その人は東京から沖縄に移り住んできている方だったのだが、時間前にバスが発車することだけは許せないと言っていた。それはそうだろう。それが、一時間に一本の路線らしいのだ。思うに、いつも遅れがちなので時には早目にということもあるだろうか。遅く来るバスも困ったものだが、それにもまして早く来て、早く出ていくのも困ったものではある。

ここらあたりで、全沖縄人を代表して釈明をしておかなければならない。「ごめんなさい」でもいいのだが、少し違う話でも。

沖縄の時間概念について語ることで釈明としたい。長いとみるか短いとみるか。

沖縄の人々は、「復帰」前だと、いったんは家に帰ってから酒を飲みに行くというサラリーマンが多かった。狭いながらも楽しい我が家に帰って、シャワーを浴びて(ここは沖縄的に、あくまでもシャワーである)それは一家団欒の夕食を済ませる

子どもたちがテレビの前に坐った頃を見計らうようにして、一家の主は再び出勤態勢を整える。まるでドリフターズのようなセリフで、「宿題しろよ」とか「歯磨きしろよ」などと言い残しつつ出掛ける。那覇だと桜坂か栄町へ、コザだと中の町あたりへ繰り出す。1972年5月15日の「復帰」あたりから様子が変わってくる当時は「本土並み」という言葉が、石ころみたいにそこら中に転がっていた時代だった。「本土並み」であるから、酒の飲み方も自ずと異なってくる。沖縄だからガード下の1杯飲み屋はないが、それでも会社の帰りに飲むようになってきた。沖縄のサラリーマンにとっての「復帰」は、自宅経由ではなくて真っ直ぐ飲み屋に向かうことでもあった。「復帰前はよかったなぁー」という先輩がいる。「遅い出勤」だから、どうしても午前様ということになる。ところで「復帰」後の帰宅時間はどうなったかというと、これが不思議なことに飲み終える時間は同じであったとさ。

インドネシアの時間は伸びるのだが、実は沖縄の時間は長寿県ということになっている。

 

 

沖縄を含む日本列島 選挙風景夏景色

 

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沖縄を含む日本列島 選挙風景夏景色

 

夏に行われた衆議院議員選挙の開票状況を、片手にビールを持ちながらテレビで視ていた。最後には、ちょうど高校野球の甲子園大会の開会式並みに、北は北海道から、青森、秋田…東京、神奈川…宮崎、鹿児島、そして沖縄という日本列島北から南という具合に当選者の事務所風景の中継が続いた。その中継にはある共通したパターンがあった。それがなにかというと、例の「ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい」の万歳三唱風景であった。中には「ばんじゃーい」もいた。負けた側は候補者が頭を深々と垂れての「私の不徳の致すところです」であった。

かつての選挙でアントニオ猪木が当選したときは「ダーッ!」のガッツポーズであったが、いまは没個性的に、ひたすら万歳三唱を繰り返す。せっかく夜中まで起きてテレビをみ見てあげているのだから、なんとかならないのかねー、と常々考えている。例えば、腹芸が得意な政治家だったら、候補者自らのお腹に絵でも描いて踊って見せるとか。敗れた候補者の場合だと、例えば、本音とはほど遠いような「私の不徳の致すところです」ではなくて、自分の落とした有権者と運動不足だったかもしれない運動員に向かって中指を立てて見せるとか。なにかいまひとつインパクトが足りないなー。もっとテレビ向けのパフォーマンスが求められているのではないか。政治離れが激しいのだから、政治家の皆さんはいかに政治を生活者に引き寄せるかの研究を心がけて欲しい。

甲子園の入場行進並みに北から南であるから、沖縄からの中継は当然の事ながらしんがりをを務める。ところが最後の最後に見せ場があった。沖縄で当選した候補者の事務所では、候補者をはじめ全員が踊っている。例のカチャーシーってやつだ。万歳列島、あるいは不徳の致す列島にあって、この踊りはテレビ時代にあっては一級に属するのでは。自民党だろうが共産党だろうが、とにかく沖縄は踊って喜びを表現する。

せっかく選挙の話になったから、ついでにもう少し選挙について。

沖縄の選挙で特徴的なことといえば、選挙ポスターかも知れない。候補者名がカタカナであるのが最大のポイントだろう。なんとなく沖縄に住んでいて、それで沖縄の気候のように何となくぼーっと道を歩いているものだから気付かないのだが、たしかに沖縄の候補者ポスターではカタカナが主流を占めている。一説にはカタカナよりひらがなよりも書きやすいからというのもあるが、それは眉睡だと思うな。ひどいのは、字が書けない人がいるからという有権者を小馬鹿にした説もある。

 

沖縄を含む日本列島 選挙風景夏景色ー2

 

うちなー的沖縄

沖縄を含む日本列島 選挙風景夏景色ー2

いまどきそんな無形文化財みたいな人がいるかよ。笑ってしまうのだが、ボクが勤めている職場の組合選挙でもカタカナが登場する。対象者が市役所の職員だから、どうみても義務教育程度の学力はあると思うのだが。単なる慣れでもってカタカナを使用しているとしか思えない。

それと、沖縄ではやたらと候補者名を縮める傾向にある。例えば「大田」は「オータ」、「恵一」は「ケ一」となり、「マッキントッシュ」が「マック」であるように「一太郎」は「一タロ」となる。縮めたうえに変則的な読み方をする場合もある。これがなかなか笑える。例えば「庄一」だと、なぜかしら「ソ一」になる。「しょう」は簡略されて単に「ソ」で、その結果、「庄」を無理矢理縮めて「ソ」になるというもの。

目からうろこが飛び出して、それがどこまで飛んでいったかわからなくなるほど最大にわらったのは、これは沖縄中央部のエイサー処での選挙ポスターの話。電信柱に貼られたポスターには、大きな文字で「スキン」。学校帰りの女子高生には馬鹿受けした名前であったはずだ。ひらがなの「すきん」ならともかく、なにしろ「スキン」である。一人では恥ずかしくて目をそらすように無視されても、これが集団下校の女子高生諸君たちにぶつかると、「ゆくさーひゃー(うっそー)、まさかひゃー(信じられない)」であるとか、「あきさみよー(いやぁー)、しにはごー(きたなーい)。うわっはっはっはっは」状態となる。それにしてもスキンはないよな秀金さん。

先日、ある統計で興味深いのがあった。子どもたちに、「あなたは将来、どのような事をしたいのですか」というようなものであった。公務員であるとか、看護婦であるとかが多かったのだが、政治家になりたいというのは信じられないほどに低い数字であった。

 

日本の政治は随分と国民から遠い存在のようだ。政治イコール悪いという印象を長い間に植え付けてしまっている。政治が身近ではないのだ。で、ということもないのだろうが、庶民に身近な存在でありたいという意識の表れなのか面白い選挙ポスターを見たことがある。

わたしはキャベツ。

これではまるでなぞなぞみたいなものである。少々の説明を要する。沖縄の言葉ではキャベツのことを「たまなー」という。語源は玉菜ということ。「わたしは、たまなー」。ここまで説明して解る人は沖縄の人。

そう、玉那覇さんという候補者だった。こういうのは結構面白いが、でもこの方はたしかポトン(落選)だった、はず。

宮古島から橋を渡ったら、そこはカリブだった。

 

 

うちなー的沖縄

宮古島から橋を渡ったら、そこはカリブだった。

ひさびさに宮古島へ行った。目的は映画と豆腐。

映画とはいっても、わざわざ那覇から宮古の映画館まで足を運んだわけではない。映画のロケである。日活の「きみのためにできること」(篠原哲夫監督)へ立ち会ってきた。映画の中で、沖縄の祭祀に関する音源が必要だという事で、そのテープを携えての参加だった。そのテープを銀幕の中で扱う役どころが岩城滉一。ところで日活と聞いて、赤木圭一郎や石原裕次郎、小林旭を思い出す世代と、日活ロマンポルノを想起する世代がある。ボクなどは前者なのだが、ロケはポストロマンポルノの第三期日活映画だった。

映画はそれくらいにして、話は豆腐に移る。

沖縄豆腐に凝っている。日本豆腐と沖縄豆腐の根本的、かつ決定的な違いは冷たいか熱いかだけ。宮古島にはけっこう手作りの豆腐があるという事で、豆腐屋を回っていた。どこかのコーヒーメーカーではないが、豆腐屋の朝は早い。そこであるA豆腐屋でのおばぁとの会話。

作ったら、どこで売るのですか。

「市場にが持って行くべきであるサ」

次にB豆腐屋でのおばぁとの会話。

やはり、にがりは海水を使うのですか。

「そうよ、うちは昔から。うちは海には行かないが、あれ(ご主人のこと)が汲みにが行く。不思議にも満潮と干潮でも海水の味は違うそうですよ」

そこへ海水を汲み終えた戻ってきたご主人に聞いてみた。干潮で味が違うって本当ですか。

「違うはずないさ、同じ!」

沖縄内にあっては、宮古の「標準語」は独特のスピリッツとイントネーションがある。いっけん、ぶっきらぼうでとっつきにくい気がするが、なかなかに味のある話を聞かせてくれる。

最近は宮古でも大手の豆腐屋が出現してきているが、それでもけっこう隣近所を対象としたほそぼそ豆腐屋が頑張っているみたい。ということで、宮古島周辺の島々はどうなっているのか池間島と来間島に行ってみた。

池間島にも来間島にも、いまでは立派な橋が架けられたが、それ以前は堂々の立派な島であった。そこでまずは豆腐について訊ねてみたところ、案の定というか豆腐が消えていた。そうかぁ、橋が架かると島の豆腐屋が消えるわけね。渡し舟が惜しまれつつ消えていくのと同じなのね。渡し舟だと、必ずといっていいほど、「最後の渡し、長い間お疲れさまでした」的なニュースになるが、ところが我が豆腐はそうはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宮古島から橋を渡ったら、そこはカリブだった。-2

 

うちなー的沖縄

宮古島から橋を渡ったら、そこはカリブだった。-2

やめたのではなく休止中というのもあったが、ここで一つの法則を発見したのだった。橋が架かると島の豆腐が消える。島の場合は、勇逸の豆腐だったのが橋とともに大量生産の豆腐が渡ってくるのだろう。そういえば、ハワイ・ホノルルのダウンタウンで見かけた豆腐には、たしか「ISLAND TOFU」と表示されていたな。直訳すれば、これはひょっとして「島豆腐」ではないか。ハワイはメインランドと橋でつながってないもんね。

豆腐を訪ねての池間島だったのだが、島そのものが面白かった。橋を渡るとき、左手には風量発電機5基が辺りの風を切り裂くようにブルゾンと回っている姿が見え、左手には大神島がのぞめた。橋の下の海の色は、不自然なほどにプール色だった。おりしも、その日は池間公民館の落成式があって黒塗りの車も来ていたが、やはり主役は島のおじぃ。おばぁ達であった。どなたも着飾って、それはまるでカリブの島々の人々が日曜日の教会に出掛けるような光景だった。カリブ海でわかりにくければ、日曜日の朝、ニューヨークはハーレムの教会一帯と言えば理解しやすいだろうか。おばさんたちは、地味な柄ながらもその日用という感じの糊の効いた服装で会場に向かう。おじさんたちは一様にスーツ姿でマイカーの自転車に乗ってキーキーとブレーキの音をきしませてやって来る。

新装された公民館前には、入りきれない住民のためにテントまで用意されていた。式典がはじまる前から、島のおじぃたちは三々五々にガジュマルの木の下でたむろしていた。とってもいい光景だった。海岸近くで風がよっぽど強いのかガジュマルは柳生博カットみたいに陸地側にたなびいていた。その木陰でおじいたちが坐りこんでの話が続いていた。

落成式典であるから、沖縄、特に島らしくびっしりと余興が続いていた。オープニングは、この世の極楽鳥かと見まがうほどの鮮やかな紅型衣装での踊り。お歳は絶対に80歳近くだったはずだが、ひょっとして超えていたかも。圧巻は男子高校生たちによる「チャイナ・タウン」の踊りだった。サンフランシスコのなんとかかんとかという歌である。このように古い民用曲に振りをつけての踊りというのは島の伝統であるらしく、先輩たちから引き継いでいるとのこと。実に優雅で素晴らしい。彼らは何一つ照れることなく大きなセンスを広げて妙に生々しい腰つきで舞っていたのだが、それを見ていて何だか時間が止まったかのような錯覚を覚えてしまった。