うちなー的沖縄
桜坂の叶姉妹の店は昼間営業です。
那覇のレトロな桜坂と栄町について触れてみたいと、前回書いた。
当初、二回くらいに分けてと考えていたが、桜坂や栄町は底なし沼みたいなもので、とても二回程度には収まりそうにない。とりあえず桜坂の後半部分についてユンタク(はなし)をしてみる。先日、年も押し迫った時期に東京から友人夫婦がやってきた。二人して大阪人なのだが、その分だけノリはすこぶるいい。ボク自身もだが、東京に住む娘もなにかと世話になっている。沖縄での数日に及ぶ取材を終えたら
沖縄県那覇市内でウィークリーマンスリーマンションをお探しなら、1日からのご利用も可能な格安の宿泊施設、グランピア波之上がオススメ。観光、ビジネス、出張、沖縄移住での長期滞在などマンスリーマンションとしてもご利用になれます。
うちなー的沖縄
桜坂の叶姉妹の店は昼間営業です。
那覇のレトロな桜坂と栄町について触れてみたいと、前回書いた。
当初、二回くらいに分けてと考えていたが、桜坂や栄町は底なし沼みたいなもので、とても二回程度には収まりそうにない。とりあえず桜坂の後半部分についてユンタク(はなし)をしてみる。先日、年も押し迫った時期に東京から友人夫婦がやってきた。二人して大阪人なのだが、その分だけノリはすこぶるいい。ボク自身もだが、東京に住む娘もなにかと世話になっている。沖縄での数日に及ぶ取材を終えたら
うちなー的沖縄
ガイドブックに載らない沖縄式結婚披露宴芸
先日、久しぶりに結婚披露宴の余興に出た。おそらく十数年振りである。20代、30代の頃は、多い年だと年間に5、6回はこなしていたのではないだろうか
それほど多いということは、沖縄の結婚披露宴の招待客が極端に多いということに起因している。ヤマトで親せきや友人の披露宴には何度か参加したことがあるのだが、いずれも少数の招待客であった。それに比べると、沖縄のはまるで芸人並みである。なぜ多くなるかというと、比較してみるとすぐわかる。まず、友人連中だが、代表して2、3人ではなく、全員が来る。親戚筋でも、日頃はあまり付き合いがなくとも来る。それに職場は丸ごととか、とにかく多い。なかにはどうして自分が呼ばれているのだろうかと悩む人が混ざっていることも。
厳かな式を済ませ、披露宴の場でも自分たちが主役と思っているのは
実は沖縄に限って言えば新郎新婦の2人とせいぜい親兄弟姉妹くらいなものであって、残りの招待客はどこかで友人たち(これはだいたいにおいて新郎の側)の余興を心待ちにしている。ここでは笑いを取ることがもっとも大切なことなのだが、受けるからと思ってコピー芸をすればたちまちにしてものまねということがばれてしまう。あくまでもオリジナル性が求められる。
それも単に下品であってはならない。あくまでも神聖な披露宴である
宴会芸とは区別したいところだ。宴会芸だと単独芸が多いようだが、これはあくまでも集団芸でなければならない。
偉そうな人の挨拶とつまらなくて長い乾杯の音頭が終われば、いよいよ余興が始まる。最初は定番としての「かぎやで風」が踊られる。
沖縄の祝いの席には欠かすことのできないセレモニーみたいなもので新郎新婦の兄弟姉妹など、近いものによって演じられる。それはほぼ2人で踊る。
緩やかな曲で、わりと退屈ではあるが、新郎が同級生の結婚披露宴でものすごい「かぎやで風」に遭遇したことがある。新郎の側が15人兄弟でその末っ子だった。兄弟に加えてそれぞれの連れ合いまで28人が踊ったのである。さすがにスペースの関係もあって同じ舞台というわけにはいかず、1班、2班、3班という具合に分けての登場となった。舞台いっぱいに広がった「かぎやで風」というのは初めて目にした。
うちなー的沖縄
ガイドブックに載らない沖縄式結婚披露宴芸-2
これだけ数がいれば、なにも恐いものはない。逆に余興の選択で悩んだことだろう。その点、ボクの結婚披露宴はシンプルそのものであった。沖縄では珍しいことなのだが、まず親戚が極端に少ない。友人たちをかき集めてとも考えたが、少ないなりのやり方で披露宴を乗り切った。上原直彦さんと大工哲弘さん。2人ともおおいに唄っていただいたが、それでも余興が足りない。なにしろボクの側と女房の側を合わせても二十数人という人数である。余興が圧倒的に不足していた
彼女も唄ったがボクは踊って唄って、そして再び踊った。親戚も、彼女の親父もみんなで次々と小さな舞台に立った。2人で唄ったのは「二見情話」で、踊ったのは「くばぬ葉ユンタ」と「一人ジュリ馬」という踊りだった。
同僚でもあり友人でもあるT・Kという人物がいる。この男、とにかく凄い。沖縄的ビーチパリー(原音を忠実に表記するとこうなる)のプロであり、寿司を握らせたらお手も物で、舞台つくりもプロ並みときており、ようするに遊ばすと他を寄せ付けないほど輝いている。器用そのものなのだが、もっとも得意とするのは結婚披露宴における余興が凝っている。彼との付き合いは長く、その分だけ恥ずかしいことも含めていろいろとさせられたことがある。「藤娘」「白鳥の湖」
「ジュリ馬」などをこなすから和洋プラス舞踊すべてを得意としている。彼は、とにかく当日の2か月くらい前からプランを練る。けっして同じ出し物はやらない。プライドが許さないのだ。本番前の1か月くらいが彼の思考期間で、残り1か月が出演者の練習期間ということになる。
同じ職場の友人が結婚をした。晩婚でもあったが、その友人は我々に余興をさせなかった。日頃からダンディーで通している男であり、おそらくは下品な余興を警戒していたのであろう。舞台で演じられているのは、バロックの演奏であったりして、我々はただただポカーンとしていた。その席に招待されていた席T・Kは、招待客の中で誰よりもつまらなそうな顔をしていた。しょうがないねー、とか言いつつ二次会に行ったのだが、そこでは爆発的に歌い、踊っていた。
ただ飲むだけではないというのが凄いのである。きっと天性のリズム感を備えているのだろう。どんな曲だろうとすぐにのる。(余興がなくてすこし荒れているのかな)と思っていたが、鬱憤を晴らすように踊りまくっていた。店の人は笑い転げて、彼だけが飲み代が免除された。
うちなー的沖縄
那覇には花道のある映画館があった。
昨日から今日にかけて、沖縄は映画ロケのラッシュであった。
沖縄の政治家である瀬永亀次郎を扱った「カメジロー・沖縄の青春」を封切りに、沖縄の混沌とした終戦直後を舞台とした「MABUI」、又吉栄喜原作の「波の上のマリア」をもとに宮本亜門が初めてメガホンを握った「BEAT」、同じく又吉栄喜作で崔洋一監督が久高島で撮った「豚の報い」、沖縄の鬼才・高嶺剛監督の「夢幻琉球・つるヘンリー」、宮古島ロケの日活映画で篠田監督の「きみのためにできること」、そして中江祐司監督の「ナビィの恋」などなど。全部観たのだが、すべてに順番を付けることはとうていできない。どうしても一番はと訊かれたら即座に答えられる。「ナビィの恋」と。それほど面白いストーリーであったし、新発見も多かった。
話はすこしずれるが、崔洋一監督と隣り合わせで飲んだことがある。那覇市内の「うりずん」という店でだ。いつものように友人たちとテーブル席でワイワイ飲んでいるところへ、髭面のおっさんが「ちょっとだけ、掛けさせてください」と隣に座った。あいにく、と言おうかいつものように混んでいた。真横の席だったので、ちらっと顔が見えたくらいだったのだが、しばらくして崔洋一監督だと気づいた。
「久高島でのロケは終わったのですかぁ」「ええ。なんとか」「それはそれは」
会話が途切れて、「待ち合わせですか」「ええ」などと、しばらくはたばこの紫煙のようにいき場のない単発の会話が続いていた。そこへもう一人のサイ監督が登場してきたので思わず片口笑いしてしまった(この表現の訳は実に難しい。ふふっ、
と声には出さずの含み笑いとでも言おうか)。高校野球で沖縄水産高校を率い、全国に名を馳せた栽監督は甲子園同様に「うりずん」をホームグラウンドにして、ときどきは飲んだりしていた。
崔洋一監督と栽監督が同席することはなかったが不思議な取り合わせで、誰かが「サイ監督!」と呼ぼうものなら、たちどころにしてステレオ気味の返事があったはずである。
映画を観なくなってから久しい。なんだか超豪華資本をかけたバブリーなハリウッド・アクションばかりでつまらない。そういうこともあってか、最近の映画鑑賞はもっぱら有線テレビの前で寝そべっての鑑賞になっている。その点、「昔は良かった」と、自分の歳に合ったような台詞が飛び出すほど昔は映画の良き時代だった。
うちなー的沖縄
那覇には花道のある映画館があった。-2
友人や家族で行く楽しみもあったが、小学校でも映画見学というのがあった。学年、あるいは学校まるごと映画館に向かうのである。思い出すのは中学校の時の映画見学である。タイトルは「奏の始皇帝」。通っていた中学校はマンモス校で、ひとつの映画館には収まらなかった。そこで、隣り合わせの2か所の映画館ということになった。沖映とニュー沖映である。この2つの映画館、もともとはひとつだったもだが、ある事情があって壁でもって仕切られていた。われわれはニュー沖映組である。ところがである。われわれの側は、なんとストリップ劇場を兼ねた映画館であった。
映画館には独特の間がある。始まる前のどよめきとでも言ようか。歴史の勉強の一環としての映画見学であったが、大きなどよめきが起こった。超思春期の中学生には、この学生には、この劇場は刺激が強すぎた。同級生に一人が、いつのまにか、スルスルという感じで花道に登ったのである。花道、ストリップ。あとは悪戯まっしぐらしかない。どこで覚えてきたのか、同級生はストリッパーの仕草で踊りだしてしまった。教師たちは「馬鹿っ、止めろっー、降りろー」と怒鳴るのだが、その数十倍ものヤンヤヤンでかき消され、いよいよ踊りに迫真さを増してきた。
ひと騒ぎがあって、やがて映画が上映された。ところが先ほどの大笑いの火種はくすぶっていて、誰かがゲラゲラと思い出し笑いをする。笑いは連鎖し、たちまちにして館内が笑いの伝染病に包まれる。教師は、すかさず「静かにっー!」と注意をするのだが、なにしろ暗い映画館である。誰が大笑いしてるのかさっぱりと見当もつかない。最後まで収拾のつかない映画見学となってしまった。
映画見学の笑いでもうひとつ覚えていることがある。タイトルもしっかりと覚えている。シェークスピアの「オセロ」という映画だった。ムーア人の就軍オセロが死んでいるシーンだった。死んだはずのオセロの腹が呼吸のためにスーハ―スーハ―と動いていた。気付かなければいいのに、必ずやそういうことに気づく奴がいる。
クスクス笑いだし、それに気づいたみんなが笑いだす。悲劇のはずの劇がたちまちにして喜劇と化してしまった。話は「奏での始皇帝」に戻るのだが、あの時の教師たちは、ひょっとして始末書の1枚や2枚は書かされてしまったのではないだろうか。踊った同級生はというと、その時はメーゴ―サー(げんこつ)を喰らっていたのが、長い間にわたって「英雄」としてもてはやされていた。
ういなー的沖縄
モノレールに乗って南米に行ってきますー2
切符発売機の前に並ぶといえば、
うちなー的沖縄
南米うるま園のパラダイス。
「南米で豆腐を食べてきます」宣言をしたのが、実際に南米に行ってきた。アメリカ経由でブラジルのサンパウロを経て、アルゼンチンのブエノスアイレスへの飛行は人間の限界を超える長旅であった。南米で食べた豆腐は沖縄の硬いシマ豆腐だったのだが、その話はいずれ書くことにして、垣間見ていたアルゼンチンの沖縄社会について。
それにしても地球というサイズが現在の規模だからいいものの、これが二倍とかだと、きっと南米行きを諦めたに違いない。
アルゼンチンには、およそ二万七千人くらいの日系人が暮らしている。そのうち約一万五千人が沖縄系というから、その数たるや圧倒的である。とは言ってみたものの97%が白人系であり、残りも白人とインディオとの混血が占めていて、日系人を含めてのその他の人種構成比率はほんのわずかということになる。その、ほんのわずかなその他では韓国系が多くを占めている。
日系社会の形成は、95年前の「笠戸丸」による移民が皮切りだったのだが、韓国系はここ30年ほどで一気に増えて、いまでは10万人に達しているという。加えて中国系も増えているというから、日系人は圧倒的に少数派中の少数ということになる。
そういうと何となく沖縄系も沈んでいるかのような印象に受け止められるかも知れないが、決してそうでもない。日系人会館よりも大きな規模を誇っているのが沖縄会館だし、一番に多くの移民を輩出した中城村出身者などは同規模の開館を独自に所有し、その中城村の一集落である久場は、やはり独自の会館を持っていて盛んに活動を続けている。会館を利用しての空手指導なども行われていて、広く活用されている印象を持った。もちろんのこと、センセイは沖縄出身者があたっていた。
アルゼンチンの空手界では、「センパイ」あるいは「コウハイ」などという言葉が生きていた。空手関係者とは随分と会う機会があったのだが、センセイの弟子たちからは、「センセイのコウハイですか」などと質問されたりした。確かに後輩ではあるが、「そうだ」と言うと大変な誤解を与えそうで曖昧にしていた。
ブエノスアイレスの近郊に、「うるま園」という沖縄県人たちのオアシスがある。
いわば県人会館直営の福利厚生施設である。そこへ二日間続けて足を運んでみた。
サッカー場でいえば、おそらくは6面か8面くらいがとれる広さである。実際にそこでは若い世代はサッカーに興じていた。一方ではゲートボールが盛んにおこなわれていた。
ブエノスアイレスやその近郊で暮らす沖縄系の人々が毎週のように集まってくるとのこと。わたしはサッカーをやるわけでもないし、ましてやゲートボールという年齢でもない。そうなると居場所がないのだが、実は違った。あるのである、中年向けの居場所が。広大のうるま園の中央にアサードというアルゼンチン式焼き肉を焼く設備があって、サッカー場とゲートボール場を分けるかのように設置されていた
アサードはアルゼンチンならではの豪快な焼き肉で、バーベキューの一種である。とにかくサイズがジャンボで、二切れくらいで満腹状態になる。それは朝早くから準備してお昼に備えている。
うちなー的沖縄
南米うるま園のパラダイスー2
食べ物はさておき、ここでもっとも楽しかったのは会話である。私とほとんど同じ歳くらいの人たちだったのだが、とにかく面白い。このうるま園に来るときは家族単位なのだが、しばらくすると集団がばらけて、いろいろな人との交流が開始される。アサードだけでなく、そこには必ずやワインが介在している。とにかくワイン好きな人々である。沖縄だったらオリオンビールか泡盛ってことだが、ここではとにもかくにもワイン。最初は出身地ごとに集まっていたのだが、しばらくすると三々五々バラバラになってくる。
うるま園では、きちんと遊びの役割分担があるようだ。サッカー、ゲートボール、それにアサード&ワイン組である。それは一世世代と二世、三世世代、それにその中間派との区分と言う感じがした。二世、三世たちは当然のようにスペイン語を話す。親たちもちろんのことスペイン語をなのだが、同世代が一世だと、子どもたちも片言ながらウチナーグチが飛び出してくる。
驚いたことに「ヒティミティムン」であるとか「アサバン」という単語が次々と飛び交っている。おそらくは沖縄でもある一定以下の年齢では消えかかっているような気がする。朝ご飯、昼ご飯という意味なのだが、それをスペイン語と同じような感覚で語りかけてくる。
今回の旅行先は、アルゼンチン、ブラジル、パラグァイだったのだが、スペイン語もブラジル語もさっぱりだったのだが、こういう地域ではウチナーグチを操る人々はそれぞれの出身地の訛りを残している。その子供たちも同じように訛りを残しているのである。アサードはいろいろな組み合わせを可能にする。「ドウコウカイ」という単語をたびたび耳にしたが、それは「同好会」ではなく、「同航会」のことであった。同じ船に乗って移民をしてきた仲間ということで、そうなると同じ地域出身者ということにはならない。ワインを片手に、「あっちゃー(歩く)・あっちゃー(歩く)」をする中年オジサン(ときとしてオバサンも)たちが増えてくる。ようするに毎週のように集まっているから、全てが顔見知りなのである。同じ船で渡ってきた人、同じ地域出身の人、友達の友達は友達という雰囲気がうるま園中に広まっている。
これって、沖縄で言うところの、「いちゃりば・ちょうでいー」そのものである。
沖縄の諺で、はじめて出会う人でも兄弟みたいなものだ、という意味である。
そういう精神が当たり前のように目の前で繰り広げたれている。ひょっとして、沖縄では失われつつある光景かも知れない。
うちなー的沖縄