アコークローとアコータロ―。

 

ういなー的沖縄

アコークローとアコータロ―。

「アコークロー」という店が最近になって那覇の国際通りにオープンした。この店の主が経営していた姪の店は、「缶詰ハウス」と称していた。泡盛とビールがあって、酒の肴は文字通り缶詰だけであった。鯖などの味味噌、水煮、それに蒲鉾やイカの缶詰などが無造作にカウンターに並べられていて、客がそれを指差せばチンで温めて出てくる仕掛けになっていた。
シンプルを絵に描いたような店だったが、そこへ顔を出す客もシンプルであった。そもそもオーナーシェフ(?)のIさんがシンプルそのものの方であった。沖縄を代表する新聞社の名物記者にして名物コラムニストであったが、トアエモアのように、あーる日突然、エイッとばかりに安住かと思われた記者の座を投げ捨てて飲み屋のマスターになっていた。今でもフリーライターという肩書は持っているはずである。客が少ない時にカウンターで原稿を書いたりする。そういうこともあってか、店内にはマスコミ関係者がいうでもとぐろを巻いていた。けっこうのファンを掴まえていたのだが、いつのまにか店のシャッターは降りっぱなしであった。
ある日、職場にIさんからの葉書が届いた。「このたび、「アコークロー」という店を閉店します」みたいな内容であった。以前の店よりも職場からは近い。これが酒飲みからすれば困ったことである。これまでの飲み方パターンは、職場近く→
桜坂→栄町→帰宅という順であったが、これで職場近く→アコークロー→桜坂→
栄町という具合に選択肢が増えてしまう。まぁ、それほど悪い話ではないけれどね

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白黒テレビにはカラー放送は映りません。

 

うちなー的沖縄

白黒テレビにはカラー放送は映りません。

オキナワが沖縄になって30年経過した。いわゆる「復帰」30年ということで、ここぞとばかりに、ヤマトゥから多くの取材陣が押し寄せてきた。私のところにもコメントを求めたり取材があったりした。一応は、「皆さんが騒ぐほどのことはないと思いますよ」と答えることにした。「復帰」20年のときはいろいろと盛り上がってもいた。それはそうだろう、人間だって20年は成人式みたいなものなのだが、30歳になったときにお祝いをしたという記憶はない。「10年後の、謝花さんはどうなってると思いますか」という質問もあったので、そこは、「いま53歳ですから、おそらく61歳くらいになっているのではないでしょうか」と軽く答えておいた。ちょっと冗談がきつかったのかも知れないが、しかし、そんなものだ。
30年ひと昔という感じがしないでもない。交通区分だって、いまとは逆でアメリカ式であった。私は交通区分が劇的に変わる瞬間を目撃していない。その日、八重山の新城島という人口が四人だけの島にいた。もちろん車もない島だったので世間の大騒ぎとは無縁であった。翌々日くらいに那覇に戻ってきたら国道58号などは大混乱していた。
今の国道58号線は、軍用道路1号線といっていた。グアム島に行った時驚いたことは、やはり1号線が沖縄とそっくりであった。中央の車両部分だけアスファルトが敷かれていて、端の歩道部分は単にコーラルが敷かれているだけであった。
実際には雨水の浸透にはその方法が良かったという評価もありはする。あの頃のオキナワの雰囲気が残っていて懐かしくもあった。
貨幣は当然のことながらUSダラーを使っていた。最近になってドルを使う機会があったのだが、どうもオモチャのお金みたいに見える。逆に当時は日本円の方がオモチャのお金に見えたものだ。それは実質上の外国であったということに他ならない。道路も通貨もたちまちにして変わった。お年寄りからすれば大変な変わり様であったはずだ。若ければ若いほど頭の切り替えも早いのだが、その点では沖縄のおじぃもおばぁも相当に苦労したことになる。人間、そう簡単に意識が変われるものではない。以前にも書いたことがあるのだが、そのために交通安全の歌なども沖縄民謡風に歌われたりしていた。

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白黒テレビにはカラー放送は映りません。-2

 

うちなー的沖縄

白黒テレビにはカラー放送は映りません。-2

沖縄は何度か通貨の切り替えを経験している。旧日本円からA円あるいはB円という沖縄限定の軍票だったのが、ドルに変わった。それから日本円という変遷がある。B円からドルへの変化は単位そのものが計算しやすかったが、ドルから円が大変であった。もともとUSドルと日本円との関係は固定相場であったが、「復帰」を目前にしていきなり変動相場になったものだから混乱に拍車をかけていた。とにかく貨幣価値が日々変わるというのは疲れるというものだ。
学生時代から就職していた頃にかけて、よく石垣島へ遊びに行った。石垣島を拠点に八重山の島々には中学生の頃から何度も足を運んでだ。石垣島には父の知り合いがいて、そこに泊めてもらっていた。そこは石垣邸ユースホテルということで、実に居心地のいい場所であった。そこの娘や娘たちとも仲がよくて、そのこともあってかユースホテルの会員というよりも特別会員の扱いであった。翌朝の朝食用の食材を冷蔵庫から持ち出して酒の肴にしたことがある。そこの娘も一緒だったから始末が悪い。朝食を準備するために冷蔵庫を開けたらいきなり空っぽであるから、ユースホテルを運営するおばさんは大変だったと思う。酒の味は石垣で覚えたようなものだ。ひんぱんに通っていると多くの友人ができた。その中に市長さんの息子もいた。二人で美崎町という飲食街にも顔を出すようになっていた。だが、自由になる小遣いは少ない。そこで市長のキープを狙って息子と二人で深夜徘徊していた。
政治かたるもの、あきれるくらい方々にキープしている。それを気づかれないように少しずつ、一杯だけずつ二人で飲んで歩く。
なにしろ、何か特別の用事があるわけでもなく日がな一日を過ごしてブラブラしているものだから暇を持て余している。新聞も隅々まで読みまくることになる。「出船入船」、「死亡広告」など重箱の隅々を突くようにして新聞に見入る。
八重山の新聞で思い出すのだが、本当に地元紙という感じで楽しい記事が多かったその中で、「アルバイト求めています」という広告記事が印象として残っている。会社側とかの求人広告ではなく、どこか仕事ありませんか、私に仕事させてください、という求職広告であった。なんだか牧歌的でさえあった。
石垣島にもオキナワから沖縄へという時代の変化が押し寄せていた。
「復帰」前のテレビはNHKしかなく民放はまったくなかった。そのNHKも当時は日本放送協会ではなく、沖縄放送協会であった。OHKと総称していた。電波を島から島へと飛ばすマイクロウェーブがなく、飛行機で番組テープが那覇から運ばれていた。沖縄島までは鹿児島から島々を経由して同時に見られた。ということもあって、八重山や宮古では、「おはようございます。朝のNHKニュースです」は夕方の番組であった。大晦日の「紅白歌合戦」は都合により正月番組となる。
もちろんのこと、カラー放送ではなく白黒の時代である。それが八重山でもカラー放送時代を迎えることになった。そこで新聞にOHKから奇妙な新聞広告がでた。
奇妙な刻刻とは、「お手持ちの白黒テレビにはカラー放送は映りません。買い替える必要がありますのでご理解ください」というようなものであった。きっと「私の家のテレビはカラーが映らないという苦情が押し寄せたに違いない。そこで慌てて広告を出したのではないだろうか。

行き行きて大阪、冬の陣・夏の陣。

 

うちなー的沖縄

行き行きて大阪、冬の陣・夏の陣。
親しい友人がいる。職場では同僚でもあるし、そもそも同じ日に就職辞令をもらった仲である。それ以上に個人的にも家族付き合いをしていて、お互いの家を行き来している。彼は力持ちで優しい。
 力持ちというくらいだから、筋肉隆々とまではいかないまでも、少なくとも腕などは太くてたくましい。沈着冷静な男で、いつでもどっしりと落ち着いている。落ち着きすぎるきらいもあるが、それはそれで欠点ではなく、むしろ彼のプラス面であろう。周囲からの信頼感はすこぶる高い。
 その彼が、昨年の夏、ソワソワしていて妙に落ち着かなかったりなんと息子が夏の全国高校野球大会で甲子園にレギュラーとして出場した。そう、あの「月に向かって打つ」打法やら、左利き捕手・三塁手を擁し、これまでのセオリーを頭から無視して世間を圧倒言わしめたチームの一員として。水島新司が描く「ドカベン」の世界から抜け出してきたかのような超個性派集団だった。
「息子たちのチームは、県予選ではけっこう、いいところまで勝ち進むかも」と、やや期待を込めて語っていた。ベスト8くらいのところで、首を約7度ほど傾けて「そろそろ負けるのかなと思ったのだが」と、不思議がっていた。これがベスト4に勝ち進むと、首を15度くらい傾けて、やや身体のバランスを失っていた。こうなると、勢いは山本リンダ状態でどうにもとまらない。とうとう県予選の決勝まで「まさか、まさか」で駒を進めた。頂点までは残り一つ。まさかの甲子園は目の前だった。人間、不思議なもので、一等宝くじに当たってしまった時のセリフ同様に、「どうしよう」という心理になるものらしい。
 そしてめでたくもまさかの県代表を勝ちとってしまった。相手校の名将たる栽監督以上に、沖縄中が呆気にとられてしまった。
 この子は幼い頃から知っていた。幼いどころか世に出てくる前から知っていた。父親とはそれくらいに長い付き合いである。高校一年生のときは、丸坊主頭に「勝」という字を浮き立たせて、一年後、二年後に備えてスタンドからメガホンを持っての応援専門の野球部員であった。体格的に恵まれていたわけではなかった分だけ努力したことだろう

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行き行きて大阪、冬の陣・夏の陣。-2

 

うちなー的沖縄

行き行きて大阪、冬の陣・夏の陣。-2
彼、息子ではなく父親は沖縄の古典音楽に長けている。明笛(横笛)は元々から得意としていたし、最近ではもっぱら三線に凝っている。古典音楽コンクールでは、笛の部ではすでに最高賞まで受賞していた。三線に関しても新人賞を皮切りに優秀賞までは貰っていて、最後の仕上げとしての最高賞にチャレンジする日々であった。ところが息子がとんでもないことをしでかして、いよいよ落ち着かない日々を送ることになった。そして大阪夏の陣を体験した。ここでも一勝をしてしまった。
 随分と過去の話になるが、彼が大阪に出張ということになった。真冬の寒い時期であった。生まれて初めてのヤマトだという。出張だということで信仰な表情で私に相談をしてきた。
「せんりー(彼は私のことをそのように呼ぶ)、セーター持っちょーみ、持っちょーらー貸し入れー(セーターを持っているか、持っていたら貸してくれ)」
 上から羽織るHBTは持っているからと言う。HBTとは、米軍の戦闘用の服装で、見た目を気にしなければ防寒服には適している。一時代は、沖縄の人間がこぞって着ていた(とは言っても男性主体ではあったが)。「復帰」の頃から急激に見かけなくなっていたが、それでもこれさえあれば、意外と風があって冷える沖縄の短い冬は過ごせた。ポケットも多くあり、カバン代わりにもなった。学生たちには人気があり、夏でも風邪と向き合う漁民などには重宝がられていたはずである。
 かつて沖縄には全軍労という米軍基地内に働く人々で結成した組合があった。現在は全国的な組織の全駐労になっているご、その全軍労がすこぶる強かった。ベトナム戦争にも影響が出るほど基地の機能をマヒさせるストライキもやったりしていた。ちなみに、彼らがストの時に着ているのがHBTであった。ゲートで対峙する武装した米兵たちは複雑な思いでHBTで身を包んだ全軍労を見ていたことであろう。
 大阪のでの用件は公務出張で、ある人物に会うことになった。そして慣れない大阪の喫茶店で待ち合わせて会った。そこには付き添いで地域の議員氏もいた。議員氏はしばらくして席を立った。その後の話を総合してみると、席を外して那覇の彼の職場に確認の電話をしたようなのだ。「彼は本当に職員なのか」というという問い合わせであったという。
 たしかにHBTは疑われる服装だったのだろう。それに、口髭と短く刈り込んだ頭は「や」の字のつく職業に思われたのかもしれない。見た目だけで判断されたのである。
 冒頭で「力持ちで優しい」と書いた。ちょっとだけでも話をすればわかることなのだが、外見だけで決めつけられて、「や」にされてしまったのである。

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むかし、「ハイカラ湯」があった。

 

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むかし、「ハイカラ湯」があった。
世の中には逆現象という現象がある。
 こういうことは沖縄だけに限ってみても数多いはずである。いくつか例にとってみる。これは沖縄と沖縄を除く全国との比較である。まず、結婚披露宴だ。随分と前の話だが、従兄弟の結婚ということで東京に招かれて出かけていった。あまりな招待客の少なさに、ひょっとして会場を間違えたのではと、入り口で足がフリーズしてしまった。まさか、たったこれだけで披露宴なんて。なにしろ会場にら50人ちょっとしかいない。本土における結婚披露宴の状況を知らない人間をコケにしての、「どっきり」かと思ったほどだ。
 会場は細長い部屋で、その形にも驚いた。沖縄の人間として知りうる常識だと、披露宴会場はとにかく広いホテルのホール、ずっと以前だと貸しホールなどであった。男性招待客は一様に白ネクタイである。女性招待客も留袖姿多かった。このことも男性同様に近親者が多いはずである。新郎新婦を挟むようにして仲人夫妻の四人が奥のテーブルでかしこまっている。そして会議室みたいに招待客が両家に分かれるような格好で掛けていた。これから結構して仲良くするのだから、わざわざ別に対決するような席のあり方に興味が湧いた、というよりも奇異に感じたものだ。そして一番驚いたのは、両親が末席で、兄弟姉妹、叔父叔母、従兄弟という具合という具合に座り、最後の上座に友人代表が座っている構図であった。
 沖縄とはまったくの逆である。新郎新婦と関係が近ければ近いほど座席も近い。つまり、謙遜とかいう世界とは逆現象なのである。
 沖縄の披露宴会場での座席の配置は、とにかく一番にいい席が両親、その横に近しい親戚、その後ろあたりに従兄弟(従姉妹)連中やピヨピヨと何かうるさい甥や姪あたり、会場の真ん中辺に職場関係者、そして末席であるはずのステージ前に、披露宴の最初から最後までワイワイと騒いでる友人たちという配列である。まぁ、末席といってもステージに近いわけだから、そこが上座と言えなくもない。
 四方を海に囲まれながらも泳げないウチナーンチュというのも妙な逆現象である。山梨県や長野県などの人が海で泳げることに対する我々の畏怖感はかなり、あるにはある。いったいどこで泳ぎを覚えたのか不思議であった。川で泳ぎを覚えて河童になったと聞かされても、そもそも沖縄には泳ぎに適した川など皆無であるから、どうにも理解が出来なかった。

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むかし、「ハイカラ湯」があった。-2

 

うちなー的沖縄

むかし、「ハイカラ湯」があった。-2

 

 最近では、台風銀座の沖縄の数倍、数十倍の台風被害というのも逆転した現象だという気がする。北上すればするほど風力は弱まっているはずなのだが、被害は甚大だという。もっとも、今年の台風は従来からの基本型ではなかった。天気図でいえば南からやってくるのではなく、やたらと右側で発生して、北向きではなく、西向きに襲来を繰り返してはいた。思わぬ方向からの台風に備えを欠いた嫌いもあったのではないだろうか。
 そういえば、730というのもあったな。「復帰」前の状態で、車がいまとは逆方向に走っていた。一つの国に二つの交通方法は認められていないということで、一夜にして右から左への交通変更がなされる訳だから大変な事業ではある。残念ながら、その歴史的な瞬間を見ることはできなかった。八重山の新城島というところにいたからだ。その島には車一台もなかったから、交通区分の変更とは無縁だった。
 さて、と。逆現象についてである。これだけ地理的にも歴史的にも離れている沖縄であるから、いろいろな事象で逆現象というのがある。その最もたるものが銭湯ではないだろうか。ユーフルヤー、つまり湯風呂屋である。何が違うかであるが、まず最初に気づいたのは沖縄ではなく東京であっやさ「神田川」ジョウータイで初めて銭湯に行った日のことらいまだに忘れない。いきなりカウンターパンチを食らってしまった。番台がないのである。少なくとも営業しているはずなのだが、どこへ入浴料を出せばいいのだ。次から次とレノンをかいぐって入浴客は中に吸い込まれていく。真似て中に入って、あっはー、と日本風呂屋と沖縄風呂屋の違いに気づいていた次第。それにしても妙である。この前向きな沖縄のに対して後ろ向きではなあいが内向きの銭湯はまずいのではないだろうか。これでは欲情を招く。客たちは恥ずかしくはないのか、などと考えていて、いったい風呂に入ったのか入っていないのか釈然としないままに出してしまった。
 あの頃のことを思い出してみることにしよう。後にテレビ番組に『時間ですよ』で見かけた裸のシーンが実際に目の前で繰り広げられていた。目の前というほどではないが、それでも金を払うとき、伏目がちにチラッと女風呂をスーミーすることになる。スーミとは覗くことなのだが、でも『時間ですよ』みたいに若い女性はいなかったような気がする。どちらかというと、人生のベテランが多かった。
 沖縄の銭湯に話を戻そう。いまや存続かわ危機的といえるほどの存在になっている。家庭にシャワーなどが完備していることもあるのだが、以前ほどの楽しみもないというか。
 私のメインのユーフルヤーは「ハイカラ湯」であった。どうだ、参ったかと言いたいほどのお洒落な名前の銭湯である。それもいまでは消えてしまった。ユーフルヤーには思い出が一杯詰まっていた。当然のことながら有料であったから、あの当時としては一年に二度、それこそ盆正月しか行かなかった。ゆえに何時間もかけて体をこすったものだ。というのは口実で実は遊び場にしていた。「ハイカラ湯」が消えて久しいのだが、嬉しいことに「ハイカラ湯通り」という愛称まで残っている。いまでもそこを通ると、ほのかに石鹸の匂いが立ち上がってくる。

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栄町サミットと世界のウチナーンチュ大会。

 

うちなー的 沖縄

栄町サミットと世界のウチナーンチュ大会。
六年ぶりの「世界のウチナーンチュ大会」があった。本来は五年に一度の間隔で開催されることになっていて二〇〇〇年が第三回目の予定であったが、九州沖縄サミットの主会場が沖縄になった都合で一年延期して昨年末に開催された。一方の世界のゥエーキンチュ(金持ち)大会のサミットは一年に一度、沖縄の模合みたいなもので定期的に行われる。
 沖縄サミットも終わって、「さぁ、次は世界のウチナーンチュ大会だね」という時に、同時多発テロが発生したものだから、世界中からの参加者が激減するのではないかという心配を抱えていた。しかし世界のウチナーンチュ大会は意気軒昂であった。沖縄系は南米とアメリカが圧倒的に多い。特にアメリカは州単位で大挙して押し寄せてくる。テロ以降の、例の「USA、USA」コールを口々に国際通りをパレードしていた。
 その国際通りとは、「万国津梁の鐘」の文言を借りれば唇と歯の近さにある栄町市場の一角でも「世界のウチナーンチュ大会IN栄町市場」が静かに行われていた。
 話は後にするが、「どうも沖縄でサミットがあるみたいよと話題になった頃、栄町市場商店街復興組合の有志と酒を酌み交わしながら語ったことがある。宮古はドイツ村の縁で独首相を招くらしいよ。露のプーチン大統領は柔道が好きで具志川市らしいよ。南風原にはアイススケート場があって加首相ってよ。米英仏もほぼ決定しているらしいとワイワイやっていた。そこで一人のおっさんが、
「あいっ!イタリアはどうなっているか」と、妙なことを言い出した。よせばいいのにその時、ボクは、「イタリアはスパゲティーの国だから、ソーミンチャンプルーと似ているんじゃないかなぁ」と、無責任な発言をしてしまった。
 一同は酒の勢いも手伝っておおいに盛り上がってしまった。「よし、決定だ。」イタリアの首相を招いて、スパゲティとソーミンチャンプルーで熱く交流しよう」ということになった。誰一人としてイタリア首相の名前は知らなかったが、イタリア首相と交流は栄町以外にありえないと、四、五人のおじさん達によって緊急決議がなさなれた。そもそもソーミンチャンプルーは栄町だけの専売特許ではなく、それに那覇市の一地域の市場でという不思議な誘致決定決議だったが、実現すればそれはそれでインパクトはあったかもしれない。
 栄町とはそういうところである。大阪でいえば大正区みたいな、横浜でいえば鶴見みたいな、東京でいえば、うーん該当ナシだな。まぁ、そういう雰囲気があふれる庶民的な市場である。
 地元沖縄の人間にもあまり知られていないのだが、栄町市場は「ひめゆり会館」を中心に広がりを見せる。ひめゆりとは、そう、あの「ひめゆり学徒隊」のひめゆりである。かろうじて生き残った乙女達もいまでは立派なものおばぁになっている。そういうことも関係するのか栄町市場はおばぁ達が多い。
 沖縄で市場というと牧志公設市場が代名詞ともなっているのだが、渋さと観光客ズレしていない点では堂々たる地位を保っているのが栄町市場といえよう。この市場には、ありとあらゆるものが揃っている。沖縄を代表する泡盛居酒屋「うりずん」の食材は全て足元の栄町で賄われると聞いた。
「世界のウチナーンチュ大会」が終了して落ち着いた頃、栄町で「SUDAKA」という南米料理店を経営する艶子さんから電話をもらった。
「南米のウチナーンチュがたくさん集まるから来て」と。艶子さんは日頃から南米のこととなると、ムルカチシティティ(何もかもなげうって)動く人だから、そういうときはこちらもムルカチシティティ参加することにしている。

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栄町サミットと世界のウチナーンチュ大会。-2

 

うちなー的 沖縄

栄町サミットと世界のウチナーンチュ大会。-2
「世界のウチナーンチュ大会」の延長であった。トートーメー問題(この語彙については誌面の都合で詳しくは語れません。あしからず)で、ブラジルから急に沖縄に呼び戻された夫婦。アルコール類は一切駄目だがコーヒーは砂糖三杯の夫が二世で、奥さんはソー(完璧に)ブラジルンチューで日本語は旦那よりもなぜかしら上手だった。アルゼンチンから14年前に戻ってきたヤンバル訛りが美しかったおばぁと日本語よりもウチナーグチが上手い娘さん。キューバの海のライバルは沖縄しかないを強調するドラえもんののび太クンに似た三世の青年。キューバ勢はあと一人いて、沖縄婿のソーキューバンチューで、「あしたのジョー」のカロス・リベラによく似ている超美男子。
「カーロス」は日本語もウチナーグチもサーラナイサーラナイ(立て板に水)であった。それとブラジル暮らしが長い男性に、アルゼンチン国営放送でアナウンサー経験のある艶子さんに、南米無関係者代表のボクなどがその日の主な参加者だった。
 キューバからの本大会への参加は画期的であった。沖縄県の人は多く住むが、政治的な事情もあって第三回にして初めて実現した。我々のミニサミットでは主にキューバ「問題」が愉しく討議された。
 いま時代はキューバブームである。音も光も良さそうだ。いつか時間と金をつくって行きたいと考えている。音楽もさながることながら、カストロ首相の演説を聞きたいと願っている。最近の政治離れはますますなのだが、それは政治家達の演説に魅力がないことに大きな原因がある。生活は苦しくともカストロの元でいかにもラテン的に暮らす人々をこの目で見たい。カストロ演説は超人的で長時間に及ぶという。そういうことを考えていて、ふと、気づいたことがある。そうか、カストロの演説は音楽でありごらくなのでは、と。政治を易しく、世界情勢を熱く、そして面白く語るからではないか。
 その日、遅くまでラテンをラテーン(たくさん)味わった。沖縄とキューバはどこか似ているかも。そうか、両方とも島グニだからなーなどと考えているうちに寝付けない夜を過ごした。

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