一九七八年七月三十日 午前0時の大混乱。

 

 

うちなー的沖縄

一九七八年七月三十日

午前0時の大混乱。

「Wの悲劇という小説があって映画化された。730(ナナ・サン・マル)の悲劇というのもあった。一九七八年七月三十日午前0時を期して、交通区分を一気に変えてしまったことによる。

沖縄は一九七二年までアメリカが施設建を握ってた。その関係で、貨幣もドルだった。ボクが小学生の頃だったと思う。そこには米軍のMPがカービン銃で武装して不測の事態に備えていた。大人たちがひどく緊張してマネーチェンジしていた。ボクも大人たちに伍して、家の後ろのバナナの幹を削り込んだ秘密金庫(バナナ幾重にも皮があり、表面だけを残し空洞にする)から持ち出した、ワタシグヮーを握りしめて並んだ記憶がある。おばぁたちは、ドルという言葉がなかなか言えなくて、「ロル、ロル」、セントのことを「シェン、シェン」と発音していた。

ドルがそうであったように、そして交通区分もアメリカ式だったのである。つまり

車は右側を走っていた。交通区分は一国一制度が原則らしく、それまで慣れ親しんだ方法が変更されることになった。

おかしなもので、当時はそれほど考えもしなかったが、あと後になって首をひねることになる。一国一制度はいいとして、そうして沖縄が全国に合わす必要があったか。沖縄以外の全国が沖縄に合わせてもよかったのでは。一見、無茶のようだが実はそうでもない。そもそも沖縄のほうが世界的であった。日本の、車は左側路線というのは世界的に見れば圧倒的に少数派であり、小が大を飲み込む構図になっていた。これをやっていれば、海外に出かけた沖縄の人間は相当に危険ない目に遭っている。右だったのが左になり、海外では再び右に。もう、こうなるとグシャグシャになって、何が何だか判断がおかしくなるのは当然であろう。

とにかく一夜にして区分が変わるということはどういうことなのか。いろいろな不憫さが生じてくる。考えによっては、それまでの沖縄の車はほとんどが外車並みの

左ハンドルであった。車窓から腕を出して、左腕を日焼けさせるのが若い人にとってはステイタスだということを耳にしたことがある。ところが沖縄ではそこらへんのニーニー、ネーネーに限らず、たとえそれがおじさんでも、おじぃでもおばぁでも左腕を窓の外に出す分だけ日焼けしていた。

ところが普通の車はヘットライトの角度を調整してどうにかなるにせよ、バスだけはどうしようもなかった。出入り口がまるで逆になる。これだけは解決の方法がなく、バスの全てが新車になった。全てが新車になれば、当然のことながら中古車があふれる。それは忽然と沖縄から消えてしまった。やがて中国を旅行した人たちから、「万里の頂上付近で見かけた」とか、「福州市の街を走っていた」とかの情報が伝えられてきた。まるで池澤夏樹も「マシアス・ギリの失脚に出てくるようなシーンだ。外国では都合がよかったわけだ。

 

一九七八年七月三十日午前0時の大混乱。-2

 

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一九七八年七月三十日午前0時の大混乱。-2

新車になったのはよかったが、案の定というか、やはり心配された事故が起こった。それまでの慣れというのは一夜にしては克服できなかったようだ。カーブを曲がれずに畑に落ちてしまった。翌日の新聞にも大々的に載っていたが、運転手が照れくさそうにコメントしていたのが印象として残る。

困ったのは車だけではなかった。商売人もおおいに困った。なにしろいきなりである。それまでの場所で培ってきた常連客との関係が一夜にして崩れる。例をあげるとすれば、一番に大きかったのは釣具屋であろうか。伊具屋を利用する人は、釣りの途中で店を利用する。ということは、おのずと海に向かう側でなければならない。ところが730ということで店舗を逆に移動させることはできない。それまでが海に向かっていたのが、それ以降は海から帰る時に釣具屋さんに行くことになってしまったことになる。他にもある。最近、那覇のフェースとフード店の事始めについて書いたことがある。そこでは「福々饅頭」というのを取り上げだ。高良さんという夫婦が、那覇の牧志というところで饅頭屋をやっていた。当時としては、テイクアウトもできるということだ超人気店だった。なにしろホカホカである。冬場などは、家の子どもたちの鵜関二兆方式だために饅頭を懐に入れて大事そうに持ち帰る。饅頭も冷めないし、自分も暖まるというい一石二鳥方式だった。持ち帰ると言えば、アイスケーキの出始めのことだが、やはり子どもたちに食べさせようと持ち帰ったお父さんがいた。子どもたちは歓声を上げて喜ぶだろうな、などと路地を急ぐ優しいお父さん。時間をかけて持ち帰ったのはアイスケーキを刺す割りばしだという悲劇もある。おとうさんはひどくがっかりしたが、そもそもアイスケーキの実態を知らない子どもたちは、割り箸にほのかに残ったサッカリンの甘みを味わったという。

話が最近の沖縄における台風のように大きく逸れた。

饅頭屋も730でお店をたたむことになったという。いろいろなところに影響があったが、最大の恩恵を受けたのは自動車メーカーであったはずで、最大の被害者は庶民であった。

 

 

ROLEXはアームバンド代だった。

 

 

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ROLEXはアームバンド代だった。

アジア全体、あるいは世界中の経済が元気を失っている。バイアグラを次々と投入しても効き目がないほどに深刻ではある。沖縄のメーン通りではある国際通りを歩く沖縄の人間も、約1度ないし2度ほど下向きかげんのように見受けられる。

しかし、そういう中にあって、声を張り上げて、声を張り上げて濶歩する集団がいる。台湾からの人々だ。

ひとり台湾だけがすこぶる元気みたいである。

それにしても不思議な集団である。何もあんなにまで大きな声を出さなくても会話できそうなものだが、とにかく声がでかい。スクランブル交差点で大きな声を出さなくても会話できそうなものだが、とにかく声がでかい。スクランブル交差点で彼らと遭遇しようものなら、たちまちにしてミキサーに放り込まれた果物のような状態にされてしまう。それほどまれにパワーが満ちみれている。

台湾の首都である台北で、「なるほど、そうだったのか」というようなシーンを見かけたことがある。それは夜市でのことだったのだが、人々の食事にかけるエネルギーを目の当たりにした。どうしても下手物としか理解しようのない食材のデモンストレーションに人だかりだった。その脇では、すさまじいばかりの勢いで夜食を胃袋に流し込んでいた。それが若い人ならともかく、かなりの年配のおばあちゃんだっただけに、いよいよ迫力があった。そうかぁ、あの湧き出るようなエネルギー源は食事だったのか。

その台湾からの沖縄への観光客が再び増えている。昨年だと、十四万二千人が訪れたという。七、八年前だと十五万人を超えていた。減った理由は、ショッピング観光からリゾート観光への変わり目ということなのだろう。「恋をしたら沖縄へ」

というのはどこかの国の航空会社のキャッチコピーだったのだが、台湾でも同じバージョンがあるのでは。

以前がと、確かに台湾からのショッピング観光が目立っていた。那覇空港の国際ターミナルに積まれた団体客の荷は、飛行機がこれらの荷を載せて、はたして飛べるのだろうかと心配するほどに積まれていた。全員がりんご箱、全員が電化製品。

全員が「運び屋」だんではと思えるほどだった。

那覇市内でも幾つかの台湾料理店がある。ラーメン中心のとってつけたような中華料理店ではなく、明確に台湾料理と銘打っているだけに、料金は手頃ながらかなりのものだ。そもそも素材から違う。素材は野菜にいたるまで台湾から運んででくるという。店の馴染みの「運び屋」さんが店まで戸口配達をする。船舶や航空機を使って運ぶわけだが、帰れは当然のことながら、同じように沖縄から台湾まで「物」

を運ぶことになる。

中近東あたりから日本に石油を運ぶタンカーだと片道だけの荷を載せるのだが、

台湾「タンカー」は合理的な運航をしていることになる。バイアグラいらずの台湾の元気さが、ここらあたりにもうかがえる。

運び屋で思いだしたことがある。

全国紙新聞の片隅に小さな記事が載っていた。沖縄が本土に「復帰」する直前の頃だったと記憶しているので、おそらくは七0年か七一年あたりだったのだろう。その記事とは、沖縄出身の学生が、羽田空港でふらついているところを逮捕されたというものであった。シンナーや大トラの銘酊状態で逮捕されたわけではない。ある重いものを身体に隠し込んでいて捕まっていた。それが何かというと、金の延べ棒でった。細工されたチョッキか何かに延べ棒数十本が隠されていて、そのために見つかってしまったわけだ。

デューテーフリーで売られている「金の延べ棒風チョコレート」しか知らないので、本物の金の延べ棒が一本あたりの程度の重量なのかはとんと想像もつかない

 

ROLEXはアームバンド代だった。-2

 

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ROLEXはアームバンド代だった。-2

この沖縄県出身学生氏はなにも銘酊だから捕まったのではない。ふらつくだけで捕まるのであれば、もっと身近を鍛えればいい。問題は金の延べ棒だったからだ。

沖縄からアメリカに留学することを米留といい、本土に留学することを日留、すなわち日本留学と称した。この日留には国費留学と自費でかかなう二種類があった。経済的にいまでも親御さんは大変なのだが、当時だと現在の比ではない。そこで

日留生たちは自己防衛的に、あるいは字膣経済的に「運び屋」を行い自らの学費と生活費を稼いだ。

もっとも手っ取り早いのが時計であった。考えてみたら、当時の日本というのは百々に発展途上国であり、その裏返しとして海外旅行などは現金の持ち出し規制などの制約があった。当然のことながら外国製品には多額の税が課せられることになる。そうなると金はあっても欲しい品が手に入らない。そこで沖縄の学生たちが運んでくる時計などが貴重な品として、東京のアメ横などの店頭に並ぶことになる。需要がある分だけ供給体制も確立していった

ROLEXやΩを直接、アームバンド状で二の腕に巻いての、これはこれで立派な密輸であった。

時計だけではなかった。時計は一攫千金的な価値があったが、小市民的学生は無難なところで、「ネスカフェ」だったのではないだろうか。インスタントのコーヒーが貴重という時代があったのである。コーヒーそのものがアメリカそのものであり、当時としては相当贅沢品だったのだろう。

こうしてみると、台湾からのお客さんに対して随分と親しみが湧いてくる。

 

 

てんぷらの匂いと香水の匂いが廊下中に 渋谷の「恋ぶみ横町」であそんだ。

 

 

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てんぷらの匂いと香水の匂いが廊下中に

渋谷の「恋ぶみ横町」であそんだ。

70年代頃の学生運動華やかしい頃にたびたび集会が行われた宮下公園とJR渋谷駅との中間くらいに横町はあった。一歩足を踏み込んだ途端に、<あっここは昭和初期の映画のセットではないか>と感じたくらいにキマっていた。渋谷という街が

若者以外は歩くことすらはばかれるような、悪く言えばがさつな街だけに、横町は際立っていた。中央の通りを挟んでカウンター中心の小さな一杯飲み屋が軒を連なれている。せいぜい4,5人も入れば満杯になりそうな狭さである。ガラガラと戸を引くといきなり座敷というところも。そういう店は、通路で靴を脱ぐ仕掛けになっている。丁寧に並べられた靴が印象深い。

渋谷を見たのだからと、今度は新宿に足を伸ばしてみた。そこには「おもいで横町」があった。昼の12時だというのに、すでに飲み始めている様子。ああ、人生を楽しくドロップアウトしているなと言えなくもない。渋谷も新宿も渋谷も新宿も共通するイメージは「しょんべん横町」って感じ。そういえば那覇の桜坂にも「しょんべん横町」と称される場所があった。たしかに、しょんべん臭いという印象がある。大島監督の「夏の妹」の舞台にもなっていた。その桜坂の近くには「てんぷら坂」というころもあった。細い坂道に、オキナワンてんぷら屋が並んでいたから

そのように呼ばれていた。今回は桜坂と「てんぷら坂」は縁が深いという話をする

桜坂という飲食街は、舞台で例えて言えばかっては看板女優的存在であった。

沖縄でも最大級の飲み屋街で、いつも賑わっていた。時代の返還とともに、いまは看板女優の座にはないが、それでもかつての栄光をセピア色に身を隠しつつ渋い脇役の光を放っている。桜坂が全盛期の頃、飲み客のあっちへフラフラ、こっちへフラフラおじさんたちで通りはあふれかえっていた。あの頃は「掛け金おことわり」

なんて無粋な店はなかった。飲むたびごとに書けという具合。ある程度まとまったところで支払うのが通常で、サラリーマンなどは給料日かボーナスの時に一括して支払っていたようだ。

これはボク自身が勤める某市役所で目撃したこと。給料日やボーナス日、市役所の廊下は桜坂のママさん、従業員軍団で鈴なりになった。それまでの掛けを支払って

もらうためである。店ではどちらかというと志村けんばりの白塗りママも多かったが、市役所に来る頃は昼間ということもあって、化粧はやや落とし気味ではある。

それでも安物の香水をプンプンさせていた。羽振りのいいホステスさんはマックスファクターの香水の香りであったらしい。歳の頃、平均して40歳くらいだったのでは。こちらが若かった分だけ、とっても年増に見えた。なかなか支払わない客の多いので、ここでママさんは一計を案じる。客と親しい馴染みのホステス達を引き連れて市役所を訪れる。「あなたは○○さんところ、」、「あなたは△△さんところ、」「あなたは□̻□̻さんところ、」というふうに一斉に網をかけるようにして集金が始まる。これは警察のガサ入れに近いものがある。

網をかけるというよりは、どちらかというとこの集団、鵜飼みたいなものといったらお叱りを受けそうだ。鵜を束ねるのがママさん鵜匠で、ホステスの鵜が狙った獲物に向かう。その際の餌がてんぷらである。そろいもそろっててんぷら、それも熱チコーコーのてんぷら持参している。

 

 

 

てんぷらの匂いと香水の匂いが廊下中に渋谷の「恋ぶみ横町」であそんだ。ー2

 

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てんぷらの匂いと香水の匂いが廊下中に渋谷の「恋ぶみ横町」であそんだ。ー2

「てんぷら坂」で買い込んできたものだろう。市役所の中の廊下が、てんぷらから立ち上がる湯気で霞んでいた、というのはオーバーな話だが、それでも香水と混ざったような匂いがかなりたちこめていたものだ。

いまでこそ給料などは自動振替方式になっているが、以前だと直接手渡し方式であった。ここに飲み屋とサラリーマンの攻防戦が発生する。ほとんどの人は次のこともあるし気持ちよく支払うだろうが、なかには都合があって支払えないという人もいる。

とっさに机の下に潜る人、急に寝たふりをする人、さまざまである。凄い猛者もいた。廊下に集金のママを発見するや、ふわりと身のこなしも軽やかに窓を超えてバランダに逃げる御仁もいた。普段は、どちらかというと身体を動かすのは苦手そうな人だけになおさらである。この荒技は、桜坂というところが昔から火事の多いところで、飲んでいて「すわっ。火事だーっ!」という場面も多かったらしく、そうなると2階だろうが飛び降りることで自らの命を護るという習慣が自然と身についていたのだろうか。そこで鍛えた技だったとも言える。

てんぷら攻撃を察知するレーダーに長けた先輩などは、近くに喫茶店に待機して後輩達に給料袋を持って来させたりと様々な技を持ち合わせていた。

最近では見かけなくなったてんぷら攻撃だが、妙に懐かしい。いい時代だった。

※オキナワンてんぷら 天婦羅ではなく、あくまでもてんぷらである。てんぷらーとのばすと感じが出る。ソースで食べるのが定番。

 

 

 

嘉手納のおじいと嘉手苅のおとぅ

 

 

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嘉手納のおじいと嘉手苅のおとぅ

親しい友人にYさんという人がいる。彼はかれこれ三十数年、人生の三分の二を

東京という異境の地で過ごしていることになる。東京に行くたびごとに泊めてもらっているし、娘が受験の時も世話になりっぱなしであった。

そのYさんが学生時代に沖縄に帰省したときのこと。彼の帰省に合わせて東京の友人たちも沖縄に遊びに来た。沖縄初体験はこうゆう形も多い。丁度、旧盆に合わせていた。旧盆であるから親戚回りを行う。友人たちもおのずと同行することになった。

沖縄の旧盆は地域によって若干の違いがあるが、おおよそほぼ同じ形式である。旧暦の七月十三日にウンケー(先祖霊のお迎え)で、十五日にウークイ(送り)ということになる。その間、先祖が喜びそうな、実は生きている人も喜びそうな御馳走をつくり、トートーメ(沖縄式仏壇)にお供えをする。先祖が食べたかナー、と思えるころにウサンデーといってご相伴に預かる。子ども心にこれが待ちどうしかったものだ。

初日はウンケージューシー(お迎え用硬め雑炊)で、二日間の中日が素麺や団子、そして送りの日がオキナワン料理オールスターみたいな重箱料理が出た。今でもこの基本形は変わらない。最近の子どもがこうゆう料理に見向きもしないのは、いつでも食べられるからかもしれない。貴重な御馳走であった。ゆえに盆明けは食べ過ぎなのか、それとも幾度と温め直したりするせいか、やたらとワタグルグルー(腹を痛めてグルグルーする様子)する子どもが続出していた。

Yさんと東京から来て友人たちは共に親戚回りをした。おそらく旧盆の最終日であったと思われるが、嘉手納でのこと。親戚のおじいさんは寡黙であったという。本当は寡黙ではなく口下手だったのかもしれない。寡黙と口下手は同じようで実はそうではない。

今でもときどき見かけるのだが、思考法がヤマト口ではなく、沖縄の言葉で組み立てるお年寄りがいらしゃる。例を挙げると、「そこへ行くから」というのを「そこへ行くから」と表現してしまう。これなどは沖縄方言の直訳そのものから来ている。近しい親戚の子が友人たちを連れて遊びに来ている。礼儀として何か声をかけるべきなのだが、どうにも口をついてこない。

そのうち盆用の料理が出される。一緒に食べている間も沈黙の空気は流れ、暑い沖縄での扇風機を果たしていた。せっかく訪ねて来てくれたのに。嘉手納のおじいさんは少々焦っていた。何か声をかけなくては。

おじいさんが声をかけるべく、脳で組み立て始めた。<ヤサヤサ、マジェー、シシカラヤサヤー。トー、カマブクンマーサンテー(そうだそうだ、豚の三枚肉に手を出した。いいぞ、いいぞ、蒲鉾もおいしいぞ)>。友人たちは次第に料理へ箸を付けだした。誰かが揚げ豆腐をゲットした。

まさに、まさにその時だった。

 

 

嘉手納のおじさんと嘉手刈のおとぅ。-2

 

うちなー的沖縄

嘉手納のおじさんと嘉手刈のおとぅ。-2

「これ豆腐。東京にもありますか」

と、おじいさん。それまでの座は扇風機状態であったが、いきなり瞬間冷房状態に変わったと思われる。おじいさんの価値観だと、豆腐は沖縄固有のものであるとの確信があった。ひょっとしておじさんは、シシ(肉)カマブク(蒲鉾)というヤマシロの単語が思い浮かばなかったに違いない。そして豆腐という共通の言葉が重なったところで、満を持したかのように声を出したのだろう。

話は変わっても、とはいってもほとんど変わらない話を。

那覇の国際道りのど真ん中に沖縄三越がある。沖縄を訪れる観光客で、三越」があることに意外だと驚く人もいるが、香港にもシンガポールにもハワイにもあるわけだから、それほど驚くことではない。逆に東京に三越があったと驚く沖縄の人もいる。

さきほどは嘉手納のおじさんの話だったが、今度は嘉手刈のおとぅの話。つまりは嘉手刈林昌さんのことについて。知る人ぞ知る、知らない人も知っているくらいに沖縄島唄界の最長老なのだが、この方の逸話は沖縄の夜空の星の数ほど多い。

東京での公演があって・その合間をみて散策としゃれた。「そうか、ここが東海道五十三次で有名な日本橋か」と思ったかどうかはわからないが、沖縄のスーパースターはとにもかくにも日本橋界隈に立った。

見上げるばかりのビル、ビル、ビル。東京に空がないと言ったかどうかは別にして、はじめてみる雲をつくような東京に嘉手刈林昌は感心した。しばらくの間、スーパースターの目はゆっくりとパーンを繰り返した。

「んっ」と、そのときある建物に釘付けになった。

嘉手刈林昌いわく、「うちなーヌ三越ン立派ヤッサー」と。これでは解らないので、直訳してみる。「沖縄三越は立派だ、偉い!」と言ったのだ。これまではますます解らないので、心象風景を文字に表してみる。

<沖縄にある三越は立派だ。頑張って東京にまで支店を出して>ということになる。つまり彼は、沖縄の三越が本店で、日本橋の三越本店を支店だと勘違いしたのである。

偉大なる、そして立派な勘違いではないか。

 

沖縄高校生制服事情とハイカラおじさん

 

 

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沖縄高校生制服事情とハイカラおじさん

先日、仕事からの帰り、バスに乗ると同時にいきなりスコールに見舞われた。降りた停留所の近くで雨宿りをしていた。そこは県立高校の近くなのだが、彼女および彼は何事かもなかったかのように、傘をささずに平然と雨の中を歩いている。雨なのだから、少しは慌てるとかキャッキャッするとかのリアクションがありそうなものだが違った。校則でもって、けっして雨が降っていても道路で走ってはいけない、とは謳われてはいないだろう。それにしても久しぶりに見る妙に懐かしい光景だった。

子供が傘なしで歩く姿は日本ではなく、これって東南アジア文化だと思いこんでいた。しかし、この確信は、韓国でいとも簡単に覆されてしまった。ソウルの女子高校生や女子中学生もやはり傘をささずに濡れて明洞の繁華街を歩いていた。

くそ暑いという共通項がある東南アジア、そして沖縄あたりが雨を恐れぬ女子高校生の北限だと思いこんでいたがどうも違う。

無理矢理ではあるが、2つの結論を導き出した。1つは、沖縄って、きっと制服を大事にしない民族性、あるいは民俗性があるのでは。結論を急ぎすぎるが、あと私服が好きで、その分だけ制服を大切にしないのでは。

東京あたりの女子高生もし私服は好きなのだろうか、やけに制服姿が目立ってはいる。これについては、池澤夏樹さんが、那覇市の『市勢要覧・1998年版』のインタビュー記事で、「東京のひとは若くて自信がないから横並びで、自分を隠して同じパターンのファッションになる」と一刀両断に分析して見せていた。そうなのだ、度肝を抜くような超個性に見えて実は逆の形がそこにはある。

それでも沖縄の高校生は全国的に見ても、かなり制服王国だと思われる。高校ではおそらく1.2校くらいが私服OKなのでは。その反動もあるのか、沖縄の子たちは学校以外では意外とファショナブルの装いを凝らしているのかも。そしてそれが沖縄独自の若い世代のファション感覚を創りだしているとも言える。

一番身近なところに観察対象としての女子高校生がいた。つまりボクの娘である。これが実に正しい女子高校生で、ピッチ(PHS)にミニにルーズソックスと、常に三拍子揃っていた。さすがに「あみだ」ばばールックではなかったが、それでも親としては眉を曇らせていたものだ。さすがに三年間も履いているせいか、かなりくたびれた制服になっていた。ブラウスにはシミが目立ったりしていた。それでも気にしない。この感覚が不思議であった。

福岡で発刊されている「FS(25号)」の中で、長崎の小川内清孝さんが、「なぜ長崎にルーズソックスは流行らなかったのか」という面白い文を寄せてあった。長崎の高校は校則が厳しく、普通のソックスだけが許されているらしい。さて、わが、沖縄はどうだったか、気になるところだ。おそらくは各学校の校則で云々はなれていると思うが、単に守られていないということなのだろう。

沖縄でしばしば社会的問題になることがある。それは、中学生や高校生の深夜俳諧ということだ。それも制服姿でというのが問題視されたりする。そして、根本的原因は、範を示すべき大人達の行動が槍玉にあげられたりもする。「はいさいおじさん」「徘徊おじさん」こそが

 

 

沖縄高校生制服事情とハイカラおじさん。-2

 

うちなー的沖縄

沖縄高校生制服事情とハイカラおじさん。-2

あらためるべきことだと指摘される。大人たちの問題から大人達から目をそらすためなのか、制服姿で街を歩く生徒が問題として再び浮上してくる。「けしからん、それも制服で」ということになる。でも、これっておかしいよね。堂々と学校を表示する制服を着用しているのだから当てはまらない。

男子の制服についても、ちょっと触れておかしいと単なる女子高校生好きとの汚名を被るかもしれないもで、ここでキャメラ風にパーン。

沖縄を訪れる修学旅行生は多い。そして国際通は、せかいじゅりを闊歩する。事件はその国際通りのほぼ真ん中に位置する喫茶店「インシャーラ」あたりだった。ボクのすぐ前を沖縄おばさん2人、その前を修学旅行生が数人歩いていた。彼らは制服姿なのだが、ズボンが例の腰で履くというよりも太股あたりで履くような格好である。おばさんたちは、とても心配してとうとう「危ないよー」と注意していた。アクシデントでずり落ちたと思ったみたい。高校生たちは、沖縄中に響きわたるように

大笑いした。負けずにおばさん2人は、世界中に響きわたるように

大笑していた。沖縄では珍しいファションであったのである。

男の子の同長ズボンはまったく流行らなかったが、しかし、女の子のルーズソックスは沖縄中で瞬く間に広まった。ボクはいつも娘に上目遣いで、つまり三白眼的になって言っていた。「どうしてみんなと同じルーズソックスなの。沖縄には、以前からカラーソックスという素晴らしい個性があるではないか」と。これはじじつである。修学旅行生が沖縄での同じ女子高生の印象として、地元女子高生のカラーソックスであったという。ルーズソックスが流行る以前の話である。それだけ個性的だったわけだ。