白黒テレビにはカラー放送は映りません。

 

うちなー的沖縄

白黒テレビにはカラー放送は映りません。

オキナワが沖縄になって30年経過した。いわゆる「復帰」30年ということで、ここぞとばかりに、ヤマトゥから多くの取材陣が押し寄せてきた。私のところにもコメントを求めたり取材があったりした。一応は、「皆さんが騒ぐほどのことはないと思いますよ」と答えることにした。「復帰」20年のときはいろいろと盛り上がってもいた。それはそうだろう、人間だって20年は成人式みたいなものなのだが、30歳になったときにお祝いをしたという記憶はない。「10年後の、謝花さんはどうなってると思いますか」という質問もあったので、そこは、「いま53歳ですから、おそらく61歳くらいになっているのではないでしょうか」と軽く答えておいた。ちょっと冗談がきつかったのかも知れないが、しかし、そんなものだ。
30年ひと昔という感じがしないでもない。交通区分だって、いまとは逆でアメリカ式であった。私は交通区分が劇的に変わる瞬間を目撃していない。その日、八重山の新城島という人口が四人だけの島にいた。もちろん車もない島だったので世間の大騒ぎとは無縁であった。翌々日くらいに那覇に戻ってきたら国道58号などは大混乱していた。
今の国道58号線は、軍用道路1号線といっていた。グアム島に行った時驚いたことは、やはり1号線が沖縄とそっくりであった。中央の車両部分だけアスファルトが敷かれていて、端の歩道部分は単にコーラルが敷かれているだけであった。
実際には雨水の浸透にはその方法が良かったという評価もありはする。あの頃のオキナワの雰囲気が残っていて懐かしくもあった。
貨幣は当然のことながらUSダラーを使っていた。最近になってドルを使う機会があったのだが、どうもオモチャのお金みたいに見える。逆に当時は日本円の方がオモチャのお金に見えたものだ。それは実質上の外国であったということに他ならない。道路も通貨もたちまちにして変わった。お年寄りからすれば大変な変わり様であったはずだ。若ければ若いほど頭の切り替えも早いのだが、その点では沖縄のおじぃもおばぁも相当に苦労したことになる。人間、そう簡単に意識が変われるものではない。以前にも書いたことがあるのだが、そのために交通安全の歌なども沖縄民謡風に歌われたりしていた。