tyanpuru-bunka

琉球の正月-2

 

 

奄美しま唄の世界

 

琉球文化圏の島・奄美

 

祝い歌、恋歌、別れ歌、労働歌、神歌…。奄美では古くから民衆の間に数多くの歌が伝えられている。

 奄美のシマ唄は「掛け歌」で歌われること、そして日本の民謡で唯一「裏声」を使うことで知られている。今まで一日の仕事のあと夜遅くまで行われる歌遊びでは、唄者はその場の雰囲気や歌を掛ける相手によって即興的に歌詞を選び、相手はユーモアや風刺を込めた歌詞を歌い返して座を盛り上げる。そうしたやりとりの中で、もちろん結ばれる男女もいる。また歌遊びは真剣勝負の場でもあり、昔は男女とも自分の体を賭けてまで歌掛けをしたという。

 奄美諸島の中でも最も大きい大島本島のシマ唄は、ゆるやかな丘陵地帯が続く北部の笠利(かさん)節と、深い山々とリアス式海岸が連なる南部の東(ひぎゃ)節に大別されている。それぞれの風土を反映してか、笠利節はゆったりとした荘重な節回しが特徴、これに対して東節はリズミカルで抑揚に富んだ節回しを特徴としている。また北部に伝わる曲は南部ではまったく歌われてなかったり、その逆もあったり、同じ曲でも、例えば「長雲節」は北部では別れ歌、南部では祝い歌として歌われるなど曲の扱いまで大きく違っている。さらに笠利地方の「朝花節」はひとつでなく、男女別々の節で歌われるなど、歌掛けの古いスタイルが今に残っているのも魅力だろう。

 また、九州と沖縄の中間に位置することもあり、奄美大島には琉球時代の影響と、そのあと長く続いた薩摩藩による圧制時代の影響を受けて独特のシマ唄が生まれた。歌詞は八八八六調の琉球形式が多く歌われているが、「天草」や「六調」などが明らかに九州から伝わった曲や歌詞もあり、それらが長い時間をかけて消化され、沖縄でもヤマトでもない奄美のシマ唄として歌われている。薩摩の圧制に苦しめられたり命を奪われた内容も多く、旋律も沖縄のように明るくはないが、その歌詞には文字を奪われた民衆の記憶が込められており、島民たちがどんな運命をたどってきたかを知る唯一の記録ともなっている。そういう意味で歌詞は、歌以上に重要と言えるだろう

もうひとつ、奄美のシマ唄は三味線一挺を伴奏にして切々と歌われるのを特徴としている。三味線は沖縄のサンシンとほぼ同じだが、弦を沖縄のそれより細くしたり、胴に張るヘビ皮に薄い部分を使用したり、竹の皮を細長く切り出したものをバチとして使用するなど独特の工夫が凝らされている。これによって高音域が強調され、奄美のシマ唄ならではの張りつめた哀切感が生まれる。

大島紬やサトウキビなど地場産業の低迷と大学などの教育機関がないこともあり、高校を卒業した若者のほとんどが本土へ。若手の不在で奄美のシマ唄は一昔前まで「絶滅」を余儀なくされる運命にあった。ところがここ数年、里アンナ、元ちとせ、中孝介、中村瑞希、貴島康男、牧岡奈美など十代から二十代前半の唄者が続々と登場してシーンを活発化させている。彼らのすばらしさは、大人たちにありがちな奄美人ゆえのコンプレックスがまったくないこと。むしろ奄美人としてシマ唄が歌えることを誇りにさえ思っている。東京のライブハウスにも躊躇なく出演し、飛行機で取って返して学校の授業に出席するというフットワークの軽さも持っている。彼らのライフスタイルは、これからの奄美人の鏡にさえなるかもしれない。