沖縄の運動会はベンチャーズだ。

 

うちなー的沖縄

沖縄の運動会はベンチャーズだ。

沖縄でもっとも凌ぎやすい季節というのがある。夏はクソと前置きをしたくなるような暑さだし、冬は冬で風が冷たく思わぬ寒さに成ったりする。そうなると、夏と冬の間が一番にいい気候だということになるのだが、それもちょっと違う。普通だと、短い冬と長い夏の間、つまり春と秋がそれにあたるのだが、簡単に四季という言葉を用いるのには抵抗がある。そもそも沖縄に四季と呼べるほどの変化があるかどうかである。どちらかと言うと、「二季」とうにが正しいと思われる。けっして常夏ではなく、沖縄にも立派な冬はあるにはある。冬の間は風が強く、思いがけないほどの寒さを味わうこともある。とはいっても、それは短い周期でしかない。ということで沖縄にあるのは夏と短い冬、ただそれだけである。桜は一月二月で、梅も同じ時期に咲く。紅葉はほとんど見られないし、季節感は乏しい。季節を四分類するよりは二分類にしたほうが納得しやすい。

この二分類だが、これは、自然だけではなく、人の一生もそのように考えていた節がある。たとえば、沖縄で神の島と称される久高島だと、人の一生は上り坂と下り坂というような分け方がなされていた。生まれて成長する過程と、それら死に向かう過程の二通りである。この頂点が、なんと20歳を過ぎてわずか二年後の22歳であった。

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沖縄の運動会はベンチャーズだ。-2

 

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沖縄の運動会はベンチャーズだ。-2

むかしは人生そのものが短かったから、結婚も早く、出産も早い。人々は精一杯生き抜いて晩年を迎えたのである。そのピークが22歳だったことは、島の行事ごとを見ていると理解しやすい。

この二分類だけが、これはインドネシアのバリ島を見ていても気付くことではある。これもたとえばの話だが、埋葬の時に気づいた。バリの葬式は公開火葬で知れれているのだが、その葬列の出発の時間にこだわりがあった。朝早くから、というよりも数日、場所によっては数ケ月もかけて葬式の準備をするのだが葬列の出発のいよいよというとき、彼らは太陽を気にしていた。太陽が真上にさしかかったとき、おもむろに葬列は出発する。

人に一生があるように、毎日毎日が一日の歴史を有しているのだ。日が昇り、陽が沈むのは人生に重ね合わせるわけだ。太陽は象徴的に人生を表していた。ちょっと文化人類学的に、やや難しい話しをしたが言いたいことはそのことではない。沖縄の「春」や「秋」に当たる部分のことであった。

長い夏が盛りを過ぎたころ、台風が次々とやってくる。台風が通り過ぎるたびに、まるで熱いお湯に水を足すがごとく涼しさを増してくる。こういう時間がしばしば続く。実は子に時期こそ、沖縄におけるベストシーズンではないかと考えている。この時期はいわゆる「秋」である。対して「春」があるのだが、この時期を「うりずん」あるいは「若夏」と称す。語感からしても、いかにも爽やかそうな季語である。ところがこの時期は湿度あくまでも高く、動かなくとも汗が吹き出るほどで、ネーミングは爽やか系だが、実質的にはかなりのものである。

ここで「秋」に登場を願おうか。夏と冬の間のこの時期だが、空気は乾いていて、湿度もかなり低くなっている。心地よい風が吹き、肌を優しく撫でる。一度も行ったことはないが、きっとパリの風と似ているはず。何の根拠もないが、きっとシャンゼリーゼ通りを歩くときのBGM的な風が吹いているのと同じに違いない。

久しぶりに運動会を見てきた。末娘の中学三年の運動会であり、きっと高校生になったら呼んでもくれないだろうし、そもそも運動会というのがあるのかなないのかその日、まさに「秋」晴であった。大気中から湿気が飛んで、あくまでも運動会に相応しい空になっていた。

運動会はいきなりHYの音楽で準備運動がが始まった。そうか、最近はそういう自由さもあるのかと感心した。訊けば、放送クラブの生徒が自主的に選んだ曲だという。自らを振り返り、運動会の全競技中、一番につまらないのが開始直後の準備運動であったこれを思えば、なんと伸び伸びしていることか。

運動会全体が伸び伸びしていた。言い換えれば、生徒たち全員がニコニコしていた。ツレアイとも、それに近所の人とも話していたのだが、「本当にみんな笑顔だね」であった。不思議と言えば不思議なのである。今の中学生って、それほどニコニコしないのではないのではという印象がある。とにかく皆が皆、白い歯を見せているのである。

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沖縄の運動会はベンチャーズだ。-3

 

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沖縄の運動会はベンチャーズだ。-3

男子生徒、女子生徒全員で行う空手とかダンスなどが、これが随分と高度な技に挑戦したらしく、その達成感のためか、今度は白い歯が涙顔になっていた。こういうふうに書くと、どうも親馬鹿ジョータイなのだが、けっしてそうではない。これは後日になって配られた「校長だより」の中にも触れられていた。そしてクラスの全員れりーに教師全員で臨んだことも触れられていた。結果は最下位であったが、校長は来年のリベンジも誓っていた。

難しい技を三年生が一年生に教える仕組みになっているらしく、それなりに厳しいのだが、いい意味で先輩、後輩の関係を保っているようでもあっあた。

ところで、進行など生徒が自主的に運営してるような運動会であったが、どうみてもこれは生徒がやるはずはない、言葉を換えれば、あきらかに教員たちが介入していたのではと思われる節があった。

運動の華であるレリー競技のたびにと、実に不思議なBGMがながれていた。それがどういう曲であったかというと、ベンチャーズの「パイプライン」であるとか「アパッチ」などの、いわゆるテケテケものとか、ビーチボーイの「サーフィンUSA」などである。これって、絶対に教員、いや校長や教頭が選曲したはずと、周囲の同年代の親たちは大笑いして喜んでいた。

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栄町に、ふかく、深く、静かに、沈む。

 

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栄町に、ふかく、深く、静かに、沈む。

以前にも桜坂が取り上げられることがある。その際、桜坂ナビゲーターとして加わった。どこでどのように酒を飲むかという話であった。写真に写るのはまずいと思って、あえて後姿を撮ってもらったが、知ってる人にとっては一発で当てられてしまった。背中には人生の影が売っているものなのですね。

酒をのむにあたり、肝臓と相談しながら、あるいは肝臓に無理をしてもらいながら一生懸命に飲んでいる。最近は栄町というケースが増えている。

先日、わが家で新年会があって栄町市場へ買い出しに出かけた。戦後闇市をそのまま原型保存しているのではと思えるほど、市場はラビリンス状態である。細かい路地が縦横無尽に走り、ボーッとしてえいると思わぬ方向に出たりするものだから油断が出来ない。というものの、それは栄町市場体験が少ないだけであって、馴染み客からすればたいしたことではない。

可能な限り栄町市場で食材を求めてみようと考えた。するとどうだ、みごとに食材は完璧に揃っているではないか。今日のメイン料理は鶏飯だからまずは鶏肉、豚も牛の肉も当然として、田芋などの野菜類をはじめありとあらゆるものを買い求めることができたのだ。一か所にこれだけ揃っているとは。これは大きな収穫であった約30人分であるからかなりの量になる。それらの食材を持って歩くのがこれまた大変。ところがこの悩みは一発で解決した。

拠点があればいいのである。買っては置き、買っては置く場所があると助かるってもんだ。市場の中に行きつけの店があって、そこなら昼間から仕込みで開いているからそこを使わせてもらった。「栄町ナット」である。「やーぼーっ置いておこうなぁ」と次々と買ってきた品を置かせてもらった。

漁てだけでは足りなくて、リュックサックも動員していた。大量の食材となると運ぶのも一仕事となる。しかし、そこは栄町。専用ではないかと思えるような貨物車が周囲にはいる。タクシーではなく、あくまでも貨物車であるから、荷物が主役である。まず荷物を載せて、ついでにに荷物を正確に届けるための案内人として人が助手席に坐るという仕組みだ。栄町には市場も軽貨物車も一体感がある。これは嬉しい限りだ。「栄町ナット」だが、職場近くで飲んで、家路に向かう途中で桜坂あたりに横バイして、そして仕上げとしての栄町である。いわばクールダウンとしてのの使い方をしている。ここの沖縄そばが絶品である。沖縄の言葉で、「誰(たー)に言らんきよー」というのがある。「誰にも話を漏らすな、君だけに打ち明けるのだよ」という意味なのだが、この「誰にん言らんきよー」には一法則があってある程度はいってもいいよ、くらいの拘束力しかない。人によっては「誰にん言らんきよー」と言いつつ、本当のところは言って欲しいというニュアンスもあったりする不思議な言葉である。

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栄町に、ふかく、深く、静かに、沈む。-2

 

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栄町に、ふかく、深く、静かに、沈む。-2

沖縄そばが美味しいと書いた。そこで「誰にん言らんきよー」法則を行使してみたい。健クンの作る沖縄そばは美味しいのだから、ここで出汁がどうの麺がこうのと言う気はさらさらない。たべてもらえばすぐにわかるのだから。

そばの話は傍に置いといて、と。飲む話にしよう。飲んで帰るとき、背中に健からの挨拶がある。「重さん、また明日」である。この声に引かれて、翌日も「重さんまた明日」になってしまう。ところで「栄町ナット」にはトイレがない。ない。というよりは必要がない。向かい側に公衆便所が専用みたいな顔をして設置されているから大丈夫であるわけさ。店の内側のドアにトイレと書いてみてもいいのではと思っている。

席は基本的に決まっている。よっぽど酔っていない限りは止まり木がいい。誰ともゆんたくしなくていいというのがいい。こちらが金を払っているのだから、自分の時間を誰にも邪魔されたくないという強い決意で飲んでいる。ところが強い決意はすぐにヘナヘナになる。誰かいるのだ。誰もいなければ割りばしの袋を広げてそこに現行の下書きでもいかない。

多士済済はいろんな意味で多士済済である。私を見つけたら必ず話しかけてくる気のいい常連のM姉さんがいると、その「魔」の手からは逃れられない。こちらの情報もかなり知っていていい加減な話は出来ない。店は暗いのに濃いサングラスの人はかなり怪しい。そして便所言って戻ってくるたびごとに指パッチンする。どういう意味があるのかと考えたが、それ以上は詮索しないことにしている。某泡盛メーカーの社長とはどちらかというと別の店でご一緒することが多いのだが、やはりここでも口癖の「ばかたれ」はよく耳にする。「ばかたれ」が乱発されるほど上機嫌なのだ。話をしていて面白いのは栄町市場界隈の人たちだ。M姉さんもそうなのだが、市場周辺の人々はかなり濃密である。飲んでいるときもそうなのだが、日ごろからの付き合いが深い印象を受ける。とにかく市場内の情報を共有している。かつては栄えた栄町なのだが、いまは正直言って斜陽をたどっている。そこをどうにかしたいと悶々としてかどうか、夜な夜な、周辺で商売を営んでいる若い人たちが集まってくる。ほとんどがジュニアたちのようだ。こういう時代の経営状態が追い打ちをかけるのだが、あらたな客もいるのだろう。事実、この界隈だけで全ての品が揃うのを確認した客もいるのだから。ということで今夜も「また、明日ね」を聞きに行く。

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気がついたらいつも海や空のそばにいた。

 

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気がついたらいつも海や空のそばにいた。

さっきまで泣いていたかと思うと、もう笑っていたりする…。子どもは辛さをひきずらず、いつも世界を新鮮な眼で見つめていて、その笑顔は大人の気持ちをのびやかにしてくれる。沖縄がゲンキな一因として、子ども人口が多いことも関係しているのかもしれない。
 藤原家のわんぱく3兄弟、飛翔(つばさ)くん、大地くん、大和くん。沖縄に移住した当初は、環境の違いに体がびっくりしたのか、3人ともぜんそくになり、眠れない夜も多かったという。現在のマンションに引っ越してからはだんだん症状がやわらぎ、今ではお母さんの奈津子さんを悩ませるほどゲンキだ。
 休日は目覚めるのがとびっきり早い3兄弟。
「タニシを採りに行きたい!」
道路でつながっている離島・瀬長島は、マンションの目と鼻の先だ。ひと泳ぎして、海の生き物たちと戯れる。潮風と波の音。いつまでいても、何度来ても、飽きることはない。
九州の海や空と色がまったくちがう。
 子供たちのもうひとつのお気に入りの場所は、瀬長島のすぐ北側にある那覇国際空港である。九州にいた頃は電車に凝っていたそうだが、今注目しているのはもっぱら飛行機で、種類にもくわしい。

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気がついたらいつも海や空のそばにいた。-2

 

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気がついたらいつも海や空のそばにいた。-2

さっきまで泣いていたかと思うと、もう笑っていたりする…。子どもは辛さをひきずらず、いつも世界を新鮮な眼で見つめていて、その笑顔は大人の気持ちをのびやかにしてくれる。沖縄がゲンキな一因として、子ども人口が多いことも関係しているのかもしれない。
 藤原家のわんぱく3兄弟、飛翔(つばさ)くん、大地くん、大和くん。沖縄に移住した当初は、環境の違いに体がびっくりしたのか、3人ともぜんそくになり、眠れない夜も多かったという。現在のマンションに引っ越してからはだんだん症状がやわらぎ、今ではお母さんの奈津子さんを悩ませるほどゲンキだ。
 休日は目覚めるのがとびっきり早い3兄弟。
「タニシを採りに行きたい!」
道路でつながっている離島・瀬長島は、マンションの目と鼻の先だ。ひと泳ぎして、海の生き物たちと戯れる。潮風と波の音。いつまでいても、何度来ても、飽きることはない。
九州の海や空と色がまったくちがう。
 子供たちのもうひとつのお気に入りの場所は、瀬長島のすぐ北側にある那覇国際空港である。九州にいた頃は電車に凝っていたそうだが、今注目しているのはもっぱら飛行機で、種類にもくわしい。
 これは、陸上自衛隊の航空操縦士として緊急患者空輸にあたっている武俊さんの影響も大きいのだろう。
 飛行機が飛んでいく空を嬉しそうに見つめる子どもたち。
「空も海も九州とはぜんぜん色がちがいますよね。なんていうか…クリアで!」と話す奈津子さんの横から、仕事場が沖縄の空である武陵さんが
「空の上から見ればその違いがよくわかりますよ」と説得力のある一言。
 空はいつもおだやかというわけではない。夜間や悪天候のなかでも、武陵さんは日々、空へ飛ぶ。その緊張感はきっと、経験していない者の想像をこえるものだ。沖縄での勤務は独身のときにもあって、2回目だというが、今、家に帰ったときに4つの顔が迎えてくれることが、武陵さんを心強く支えているのだろう。
新しいものと出会うよろこび。
現在はすっかり沖縄での暮らしを満喫している家族であるが、奈津子さんは沖縄に来た当初、とまどうことも多かったという。
「島豆腐の独特の匂いも、沖縄そばもはじめは何これ!って感じでした。いやだいやだって言ってばかりいたんですけど、半年くらい経ったとき、体がなじんできたんでしょうね。市場に行って、おいしいものを見つけるのが楽しみになって…」
 あるとき、本島北部で出会ったヤンバル特産完熟パイナップルにはまった。その甘いこと、ジューシーなこと。今まで口にしていた輸入パイナップルと同じ名がつくとは思えないほど、おいしかった。
「ヤンバルでは250円ほどで売ってますから、いつも1度に50個くらい買って、シーズンに2、3回は買いに行きますね。帰りは重くて車が沈んでしまうくらい(笑)。内地の親戚や友だちにも大好評なので、まとめて送ってあげてます」
  いずれはまた転勤で引っ越していくかもしれない藤原さん一家。最後にら「もし沖縄を離れるこてになったら何がないと寂しくなると思いますか?」と質問してみた。
すると奈津子さんは迷わずら「パイナップル!」と笑って答えた。
子どもたちにとって沖縄を離れるという想像はつきにくいのだろうがらこれからどこで暮らしていたとしても、少年時代を振り返るたびにこの海や空の色を思い出すのだろう。

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乙姫ジェンヌたちと泪の清流。

 

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乙姫ジェンヌたちと泪の清流。

高校生の頃に宝塚歌劇団をみたことがある。宝塚に親戚がいて、母親に連れられて鹿児島経由で東京へ行く途中、大阪に立ち寄った時のこと。劇場は場違いな感じがするほど華やかな場所だった。なにしろ舞台もそうだが、すべての観客の目が星印になってチカチカしていた。

沖縄の宝塚と称される劇団があった。その名も「乙姫劇団」。肉親を失い、友人も知人も恋人も何もかも奪い去った沖縄戦が集結し、人々は束の間の静寂を取り戻した。「鉄の暴風」とも形容された沖縄戦であったが、生き残ったある人が次のようなことを言った。「戦ヌ如タンヤー」イクサヌグトータンヤーあの戦争はまるで戦争みたいだったね、と。実に泣ける話ではないか。戦争という極限を体験し、それ以上の悲哀さを表現する手段がなかったのだろう。

際限なく砲弾が飛び交い、悲鳴や呻き声が周辺を埋め尽くしたというのが実相であったはずだ。やがて砲弾の音も散発となり、あとはフェードアウト気味に戦火は止んだ。人々は奇妙な空白に襲われはじめた。音がないことに気づき、そして身近にあった芸能をむさぼるように欲した。雨あとの竹の子のように沖縄各地には劇場が誕生した。沖縄を占領した米軍政府も沖縄の芸能を奨励した。

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乙姫ジェンヌたちと泪の清流ー2

 

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乙姫ジェンヌたちと泪の清流ー2

「オキナワはニッポンじゃない」という政策で、米軍政府は特に沖縄芝居の劇団を優遇した。日本全体が沖縄戦を遂行していつ一九四五年八月一日には「沖縄芸連盟」が発足し、翌年のは松・竹・梅という、いかにも目出度そうな三劇団が旗揚げをした。劇団に属する団員は政府の技官として給料が支払われるのである。ナント、公務員芸人の出現である。

知る人ぞ知る御存知大工哲弘は那覇市の職員である。いまから十年前のことだが、当時の那覇市長から、「大工君を文化部門に人事異動させたらどうかね」と、ある職員に相談があった。そのある職員は、「わかりました。ところで大工さんの職名についてはどうしましょうか」と市長に訊ねた。市長は「うーん、どうしようか」と言った。大工さんが文化部門に移動するにあたってそれまでの職名では都合が悪いという。「大工」という職名では都合が悪いですよね。「・・・・」とキョトン。そこで、ある職員はすかさず二の矢を放った。「職名は歌手でしょうか」と提案をした。歌うことが仕事である。市長は「・・・・・・・」と絶句してこの話はジ・エンド。実現していれば沖縄どころか全国でも唯一の「公務員歌手」が誕生するはずであった。本人のためにも「歌手」でなくて良かったのでは。

公務員劇団が誕生して、しばらくすると上間郁子を代表とする女性だけの琉球舞踊ダンシングチームが結成された。そして一九四八年に、奄美大島へ遠征した際に、上間は劇団名を訊ねられてとっさに「乙姫です」と答えてしまった。それまでは正式な劇団名がなかったのである。それ以降は「乙姫劇団」としての人気街道まっしぐらであった。

当時の、沖縄芝居に限らずハワイ公園というのがひとつのステータスであった。はわいは憧れのちであり、パラダイスそのものであった。そこには沖縄系沖縄系の人々も多く住んでいる。乙姫劇団は早くも一九五一年には、堂々とハワイ公演を実現し、四ケ月ものロングランを続けたのである。

乙姫劇団の特長は、女性だけで構成されているということだろう。沖縄の芸能、特に舞台芸能などは男性だけで演じられてきたという長い歴史がある。それゆえ乙姫の出現は革命的でさえあった。人々からは衝撃でもって迎えられることとなった。劇団の人気は尋常じゃなかった。なにしろ沖縄の宝塚と称された彼女たちの舞台は花や蝶が舞うが如くであった。宝塚歌劇団同様に、当時のウチナー美童(みやらび)たちの心をときめかしたし、ついでながらオバァたちの心も胸キュンとさせた。実はアイドル乙姫劇団を最も支えたのは、美童やオバァたちよりも市場で働くおばさんたちであった。

那覇の市場は、独特の雰囲気がある。いまでこそ野郎たちも働いているのだが、ちょっと前までは乙姫同様に女だけの世界であった。沖縄戦で夫を失い女手ひとつで(んっ、ふたつか)子どもたちを育ててきた。必ずしも大きな商いではなく、どちらかというとグナアチネー(小さい商売=薄利多売の行商など)が多かった。そういう女性たちこそが乙姫の熱狂的なファンであった。

熱狂的ファンとはどのようなものなのか。喜納昌吉の「すべての人に心の花を」的である。「泣きなさい、笑いなさい」状態なのだ。沖縄芝居の特色は、ある意味では吉本新喜劇に似ている。徹底的に泣かして、そして笑いがあったりする。熱狂的に舞台を擬視するおばさんたちは、あくまでも役者と一体となって我が身を芝居を投影するのである。

母の日特別公演などのとき、ファンはお重を持って劇場を早くから訪れる。夜の公演に備えての舞台化粧をした女優さんをファンが取り巻く。至福のときである。それはそうだろう、いつも舞台で華を咲かせているスターが目の前にいるのだから。日頃の難儀哀れ(ナンジアワリ)も忘れてしまうさぁ。いよいよ乙姫命という具合になるのではないだろうか。

しかし乙姫劇団とファンの交流はこれくらいのことでは済まない。あるファンがいたとしよう。彼女は初老で、近しい身内もいない独り住まいである。61歳の生年祝いなのだが、子や孫たちや親戚縁者に囲まれての祝いというわけにはいかない。これは淋しいことである。だが、ここで凄いことが起こった。日頃は、贔屓(ひいき)にしてもらっているお返しとして花形の乙姫たちが大挙して彼女の間借り先にやってきて、特別に踊りなどを披露する世界がある。仮に宝塚あたりのパトロンならいざ知らず、名もなく貧しい一ファンのために大挙してジェンヌたちが押し寄せるだろうか。これが乙女劇団たちの神髄というものだ。

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重症急性シブイワタ症候群なんか怖くない。

 

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重症急性シブイワタ症候群なんか怖くない。

世の中には奇妙な病気が流行っている。SARS、いわゆる重症急性呼吸器症候群というらしいのだが、なんとも覚えにくい名称の奇病が世界中を震撼させている。先日、用事があって東京に行ったのだが、かなりの人がマスクをしていた。なに、ついに日本上陸かと思い、生きも止めて街を歩いていたのだが、それは単に花粉症対策であったらしく、少しはホッとした。

ボクは自慢ではないが、これまでの人生で二回ほど、重症急性シブイワタ症候群を患ったことがある。

一度目は中学校の時だった。その頃のボクは野球少年で、来る日も来る日も白球を追いかけ回していた。毎日が規則正しい生活を送っていたのだが、ある日突然、全力の力が抜けて、身の心もフニャフニャになっていた。症状としては激しい腹痛と下痢が続いていた。なんでも、シブイワタということだった。病院に担げ込まれてもおかしくない症状であったが、なぜかしら民間療法でもってチョコチョコと苦い薬らしきものを呑まされただけだった。食事はおかゆに梅干し、それとカチュー湯(鰹節を削って、それに味噌を加えて熱湯を注ぐ汁)だけであった。少年なりにももう少し栄耀のあるもの、つまり美味しいものを食べさせるべきではないかとの不満もあったが、オバァは「少し寝ていたら治るはずよ」と言っていた。そして、腹巻をさせられた。

それまでは病気らしい病気には無縁であった。トラホームで眼帯をしてキャッチボールをするほどだったのが、この奇妙なシブイワタにだけには勝てなかった。あっ、眼帯をしてキャッチボールのことが、片方の目だけではかなり無理があって、距離感がつかめず、結果として開いている片方の目へまともに当たってしまった。眼帯と、ミークルー(目黒)になって目が白黒になってしまい、われながらなんとも情けない顔になっていた。二度目の重症急性シブイワタ症候群はインドネシアのをの州都、デンバサールの安宿で見舞われた。そのときは、中学生のときよりもかなりひどく、鳴呼、ここで死んでいくのかと思えるほど重症中の重症であった。原因ははっきりしていた。生水を飲んだことによるものである。本来、胃腸にはかなりの自信を持っていた。ボクには親父のDNAが流れているはずだという自信と確信があった。父が子どもの頃、屋敷内のシーククワァ―サー(九年母=ヒラミレモン)の木によじ登って、そこに成っている実の全てを食べ尽くすまで、地上には一切降りてこなかったという武勇伝を耳にタコができるまで聴かされていた。

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