金武で五千食分の沖縄そばを見た。-2

 

うちなー的沖縄

金武で五千食分の沖縄そばを見た。-2
沖縄の中で、ハワイを中心にもっとも高い比率で移民を送り出した地域が金武町である。その分だけ、移民交流事業も盛んだ。数年前、吉田勝廣金武町長は、次代を担う町内の中学生をこぞってハワイに送り込んだことがあった。外航船一隻を丸々借り切っての一大事業であった。ボクは、この事業に浅からず関わっていた。「吉田さん、子どもたちを船に乗せて追体験学習をやりましょうよ」とさりげなく誘ってみた。普通、行政は、「検討します」と答えてうやむやにするものだが、吉田さんは本当に検討をして、結果として実行に移した。その縁もあってか、金武町の成人式の講師として呼ばれたユンタクをさせられたり、職員研修などに招聘されたこともある。
 その金武町で「大綱引き」があったので出かけた。あまりにも白くて、とてもじゃないが一回の原稿には収まらないほどの内容があった。とにかく区民総会参加というのがよかった。金武区と隣の並里区が競う綱引きなのだが、なにしろ金武区だけでも五千食もの沖縄そばが用意されていた。おにぎりにいたっては一万個という数である。一個ずつを積み上げると、きっと恩納なべさんが詠んだ琉歌の「恩納岳あがた 里が生まれジマ 森も押し除けて 此方なさな」で有名な金武の背骨である恩納岳の高さを超えるに違いない。沖縄そばにいたっては、おそらく瞬時にさばいた最高記録だったに違いない。それがことごとく無料である。ややもすると無料にありがちな無味乾燥の味ではなく、なんとも美味しかった。此厚(これくらいの厚さ)の三枚肉が三枚。出汁は濃ゆからず薄からずの、つまりとっても上等な味であった。臨時の台所となった金武町民会館は、建物いっぱいに婦人会が陣取っての作業が続いていた。そば出汁の湯気と婦人会員が醸し出す熱気の湯気で立ち込めていた。綱引き会場は国際色豊かであった。緊迫するアフガニスタンじょうせいの影響で金武のキャンプ・ハンセンの兵士たちの姿はほとんど見かけなかったが、キャンプ真向かいの新開地からはフィリピンの女性たちが大勢で駆けつけていた。実に金武らしい光景であった。もちろん多くの金武町出身の世界のウチナーンチュたちも陣取っていた。移民の町金武らしい四文字熟語が小旗に表示されていた。海外雄飛。進取気象。四海兄弟。世界平和。自助自立などなどである。中には、合格祈願、交通安全、子孫繁栄などというのもあった。
 丸一日かけて立派な大綱が編まれ、男衆たちが担いで会場へと向かう。それを女たちが見守る。昔だったら、ここで恋愛感情の一つや二つは生まれたことだろう。それほどかっこいい姿だ。綱引きのひとつのクライマックスがサールと称される役割である。それぞれの網の上に三人の武者が乗る。これは随分と名誉なことで、サールに決定すると一族挙げての祝いも行われる。ボクも祝いの場に寄せてもらった。
 金武区からは仲間尚輝君が選ばれていた。あの甲子園を湧かせたアレヨアレヨの宜野座高校野球部員である。一塁コーチャーでチャンスのとき、スタンドの「ハイサイおじさん」に合わせて踊ってしまい高野連からきつかお灸を据えられた仲間君であった。さすがに、網の上ではカチャーシーは踊っていなかったが、優雅に弓をかざして踊っていた。なんだか凄いものを見てしまったという気持ちだった。

報告します!本日も交通事故はゼロであります。

 

うちなー的沖縄

報告します!本日も交通事故はゼロであります。
警察の不祥事が続いている。最近の新聞には、何やら「隠秘」「隠蔽」「隠滅」などの字が踊っている。どうも「隠」がキーワードのようである。を
 実はボクが見聞きした警察官による「大不祥事」事件があった。具体的に記述するとバレてしまういそうなので、今回の「うちなー的沖縄」に限り、モザイクの部分を●★▲■などで表現するが、読者の皆さんはプライバシー保護の観点からくれぐれも擦ったりしないようにしてもらいたい。
 事件は、●★年前、県内の▲■島で起こった。
 ボクは一人で▲■島を旅行していた。そこで一人の単身赴任の駐在さんと知り合った。いつも一人で淋しくて、酒飲み相手を探しているのだという。それはそちらも暇を持て余しているので相手をすることにした。顔はあくまでもいかつく、怖そうではあるがなかなか話は面白い。普段だと絶対に聴くことのできない話が次から次に、まるで母の日か何かのかきいれどきの中華料理屋みたいに次々と笑えるメニューがテーブルに運ばれる。
「どうして自分が▲■島に飛ばされているかといえば、暴れているアメリカ兵を投げ飛ばして大怪我をさせたから」
「ふーん、投げ飛ばしただけですか。本当は殴ったんじゃないの」
「まぁまぁ、話はそれくらいで、ところで宮里さん、この▲■島では一年間に何件の交通事故があったと思いますか?」
「うーん、そーねー。4、5件くらいかな」
「ふふふ、とんでもない」
「じゃ、10件くらい」
「ブーッ!ゼロ、ゼロ、ゼロ件ですよ」
「ふーん、そうなの。島ではやっぱり事故ってないんだね」
「いや、本当は事故が、それも相当に大きな事故が一件あった。でもゼロ、不思議でしょう」
 本当に不思議な会話である。誰にも言わないでよ。ちょっとちょっと、誰にも言わないでよというのは、沖縄では少しは誰かに、あるいはある程度はみんなに言ってもいいよ、ということに置き換えられるのでは。イヤ、これは本当に秘密の話だから誰にも言わないでよ。相当に酔いが回ってきている。駐在さんは絶対に秘密だという。それなら言わなければいいのに、どうしても聴いてもらいたい様子。なんだから聴かないとこの夜は終わらないように思えた。わかった、わかった。絶対に誰にも言わないから。そう言いつつ、冷静な宮里千里刑事は、真綿で首を締めるようにして、徐々に犯人を自白へと追い込むのだった。
 誰にも言わないでよのエンドレスが続いて、彼はとんでもないことを自白した。
「一件の事故は、自分が起こした。酔っ払っていたものだから、ブロック塀にぶつかってしまってよー、がはは」
 何と唯一の事故とは、警察官が引き起こしたものであった。それも酔っぱらって。これって、まずいんじゃないですか。ボクは警察機構に喝を入れるようにして、ドローンと酔った目で弱々しくもにらみつけた。ここで警察機構の支部のその端っこに属する▲★警察官は、沖縄の人らしく必殺の言い訳をした。
「だからよー」
この「だからよー」は椎名誠あたりがするどく分析をしているように、沖縄独特の非を認めつつ、しかしながら責任からするっと抜けるような効用語である。これで総てが終わったのであった。
 もちろんのこと、目撃者は相当にいたはずである。誰も怪我をしていないし、いや、本人だけだし、もいうことで「事件」は闇から闇にではなく、なんとも沖縄的共同体の中で明るく消えたように思えてならない。

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報告します!本日も交通事故はゼロであります。-2

 

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報告します!本日も交通事故はゼロであります。-2
 けっしてこの▲★警察官の肩を持つわけではないが、おそらく日頃さんのからの住民への接し方は良かったのだろう。アメリカ兵を投げ飛ばしたのは沖縄が「復帰」をする前である。あの頃にアメリカ兵を投げ飛ばして怪我をさせることが、いったいどういうことだったのか。酔っては大暴れして、挙げ句の果てに銃をぶっ放したりするアメリカ兵などを相手に、たとえ怪我をさせても、記事にすべき新聞記者たちがどこかで拍手をしていた様子が目に浮かぶ。事件はあまり暗くない「闇」から「闇」で処理され、それがやがて▲■島における公式にはカウントされない交通事故につながったに違いなかった。
 時効になった話をしているのだが、ここでもう一つ、時効ではないが警察に関して消えていった過去の話をしてみる。
 「復帰」前の沖縄の警察についてである。沖縄県警ではなぬ、あくまでも琉球警察であった。沖縄の人間である一定の年齢以上の方なら憶えているはずである。あの頃の警察官は、みんなといっていいほどレーバン調のサングラスをかけていたことを。そして胸には保安官バッジみたいな記章を付けていた。まるでアメリカの警察官そのものであった。それはある意味では、もろアメリカの制度を導入していたわけだから当然といえば当然であった。「復帰」にそなえて、本土警察との交流が深まっていくのだが、あの頃だと、日本円の五百円玉と韓国の五百ウオン玉が全く同じであるように、沖縄の巡査と本土の警部の階級章が、全く同じだったというのは本当なのだろうか。随分と面白い混乱もあったのだろうな。

山本富士子と桃井かおりと連日あってしまった。

 

うちなー的沖縄

山本富士子と桃井かおりと連日あってしまった。

昨年、八重山へ遊びに行った。夏休みということで小学生の末娘も連れていった。4日間の予定が6日間になったのは台風のせいだった。
十数年前にも、そのときは上の娘を連れていったのだが、同じように台風にぶつかった。それは鳩間島でだったのだが、命からがらという感じで鳩間から石垣島行きの船に乗った。相当に危なかったらしく、途中から海上保安庁の第11管区の巡視艇が寄り添うように併走していた。
今回は飛行機が飛ばないというだけで、特別に危険というわけではなかったが、娘からは不評だった。那覇へ戻れない分だけ石垣島で飲んで遊んでいた。こういうときの友人たちというのは嬉しい存在である。「戻れなくて大変でしょう」と夜な夜な誘ってくれる。戻れなくて大変だったのは本当である。那覇で、どうしても片づけなくてはならない仕事があったのだが自然とは喧嘩もできない。
友人からの携帯電話を持って出かける。娘は宿でテレビを観ていたはずだが、父親が動くとなると一緒に行動せざるを得ない、それでブツブツ言いながらの付いてくる。学生時代から八重山にはよく通っていた友人・知人は多い。その中の友人夫婦と久々に飲んだ。
その友人氏の親父は島の名士だった。早い話が政治家であった。我々は学生の身であり、酒を飲み歩くほどの金はなかった。ところが友人の父親はいろんな飲み屋に酒をキープしてあった。それを一杯づつ飲んで次の店に移る。つまり一円、ではなく当時は沖縄がアメリカドルの時代だから1セントも出さずにハシゴして歩いていた。そうして歩いているとき、たまたま友人の父親が店にいて、仕方なく自前の酒を注文したことがある。その店は早々と出たのだが、次に来たときは店を閉めていて、なけなしの金でキープした酒はもちろんのこと消えていた。
もう一人の友人が馴染みにしているスナックに出かけた。初老の女性が一人で経営している店で、マスコミの客が多いということだった。店おみたいなの女主は、娘にかまっていた。よっぽどのことでもない限り、こういう若い客は来ない。なにしろ孫みたいな小学生である。なんやかんやいっても娘からすれば飲み屋でありつまらない表情だったのだろう。驚いたことに千円の小遣いまで貰って手にしている。娘はもう少し我慢してみようという顔つきになっていた。娘を店の人に任せて二人はおおいに飲みふけっていた。
千円をもらったことで、臨時小遣いを稼いだという思いがあったのだろうか、隣ではけっこう話が弾んでいるようだった。そのうち、妙な会話が耳に入ってきた。
「おばさんの名前は、富士子。山本富士子の富士子よ」「はぁー?」「山本富士子って知らないの?」というようなちぐはぐな会話であった。それは小学生だとしらないでしょうよ。中学生や高校生、ひょっとして大学生でも知らない名前ではないだろうか。
山本富士子を知っている世代からすれば、それは美人の代名詞でもあった。それを言う姿も面白かったが、それをポカーンと聴いている姿もなかなかのものであった台風のために閉じこめられていたのだが、そのことによる楽しみもあった。娘は寝るまえまでがうるさいのであって、いったん寝てしまえばこちらのものである。
娘は、山本富士子は知らなかったが、桃井かおりは知っていた。例の台風による飛行機の欠航で市内をぶらついていた。偶然にも、以前に二度ほど会ったことのある日本在住のドイツ人と出会った。
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山本富士子と桃井かおりと連日あってしまった。-2

 

うちなー的沖縄

山本富士子と桃井かおりと連日あってしまった。-2

「あいっ、こんなところで何している」という感じだった。彼の仲間は三人いた。
もう一人の女性だった。あれっ、どこかで会っているのだが、ほんの少しだけ間があいて気付いた。桃井かおりさんだった。本当は以前に会っていたのではなく、映画館やブラウン管で一方的に「会って」いるだけだった。こういう錯覚はときどきある。高倉健が東映のやくざ路線で輝いていた頃、路で行き会った本物のやくざ屋さんが、「うぉっす」と挨拶をするらしいというのを何かで読んだか聴いたかしていた。三人とこちらの二人の五人で遊びに行き、そして夕食も一緒にということになった。テーブルの目の前に女優が坐っている。なんとも不思議な光景だ。娘もそのように思ったかもしれないが、単なるミーハーである父親ほどの緊張感はないみたいである。なにしろ前夜は天下の、「山本富士子」さんともあっており、芸能界には慣れていたのかもしれない。
銀幕やブラウン管の印象とはまったく同じであった。沖縄では「テーテー物事(むにー)」と言うが、つまり舌足らずのしゃべり方はそのままであった。ディナーであった。とういことは最後にデザートも出てくる。注文のアイスクリームが色とりどりに並んだ。味はそれぞれに違うみたいである。桃井さんが、「せっかくだから、交換して食べましょう」と提案し、スプーンごと回してきた。「えっ、これって間接キスでは」。
家に戻り、間接キスだったと報告したら、娘は違うという。自分が舐めて、それをお父さんが舐めたと主張していた。

アコークローとアコータロ―。

 

ういなー的沖縄

アコークローとアコータロ―。

「アコークロー」という店が最近になって那覇の国際通りにオープンした。この店の主が経営していた姪の店は、「缶詰ハウス」と称していた。泡盛とビールがあって、酒の肴は文字通り缶詰だけであった。鯖などの味味噌、水煮、それに蒲鉾やイカの缶詰などが無造作にカウンターに並べられていて、客がそれを指差せばチンで温めて出てくる仕掛けになっていた。
シンプルを絵に描いたような店だったが、そこへ顔を出す客もシンプルであった。そもそもオーナーシェフ(?)のIさんがシンプルそのものの方であった。沖縄を代表する新聞社の名物記者にして名物コラムニストであったが、トアエモアのように、あーる日突然、エイッとばかりに安住かと思われた記者の座を投げ捨てて飲み屋のマスターになっていた。今でもフリーライターという肩書は持っているはずである。客が少ない時にカウンターで原稿を書いたりする。そういうこともあってか、店内にはマスコミ関係者がいうでもとぐろを巻いていた。けっこうのファンを掴まえていたのだが、いつのまにか店のシャッターは降りっぱなしであった。
ある日、職場にIさんからの葉書が届いた。「このたび、「アコークロー」という店を閉店します」みたいな内容であった。以前の店よりも職場からは近い。これが酒飲みからすれば困ったことである。これまでの飲み方パターンは、職場近く→
桜坂→栄町→帰宅という順であったが、これで職場近く→アコークロー→桜坂→
栄町という具合に選択肢が増えてしまう。まぁ、それほど悪い話ではないけれどね

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白黒テレビにはカラー放送は映りません。

 

うちなー的沖縄

白黒テレビにはカラー放送は映りません。

オキナワが沖縄になって30年経過した。いわゆる「復帰」30年ということで、ここぞとばかりに、ヤマトゥから多くの取材陣が押し寄せてきた。私のところにもコメントを求めたり取材があったりした。一応は、「皆さんが騒ぐほどのことはないと思いますよ」と答えることにした。「復帰」20年のときはいろいろと盛り上がってもいた。それはそうだろう、人間だって20年は成人式みたいなものなのだが、30歳になったときにお祝いをしたという記憶はない。「10年後の、謝花さんはどうなってると思いますか」という質問もあったので、そこは、「いま53歳ですから、おそらく61歳くらいになっているのではないでしょうか」と軽く答えておいた。ちょっと冗談がきつかったのかも知れないが、しかし、そんなものだ。
30年ひと昔という感じがしないでもない。交通区分だって、いまとは逆でアメリカ式であった。私は交通区分が劇的に変わる瞬間を目撃していない。その日、八重山の新城島という人口が四人だけの島にいた。もちろん車もない島だったので世間の大騒ぎとは無縁であった。翌々日くらいに那覇に戻ってきたら国道58号などは大混乱していた。
今の国道58号線は、軍用道路1号線といっていた。グアム島に行った時驚いたことは、やはり1号線が沖縄とそっくりであった。中央の車両部分だけアスファルトが敷かれていて、端の歩道部分は単にコーラルが敷かれているだけであった。
実際には雨水の浸透にはその方法が良かったという評価もありはする。あの頃のオキナワの雰囲気が残っていて懐かしくもあった。
貨幣は当然のことながらUSダラーを使っていた。最近になってドルを使う機会があったのだが、どうもオモチャのお金みたいに見える。逆に当時は日本円の方がオモチャのお金に見えたものだ。それは実質上の外国であったということに他ならない。道路も通貨もたちまちにして変わった。お年寄りからすれば大変な変わり様であったはずだ。若ければ若いほど頭の切り替えも早いのだが、その点では沖縄のおじぃもおばぁも相当に苦労したことになる。人間、そう簡単に意識が変われるものではない。以前にも書いたことがあるのだが、そのために交通安全の歌なども沖縄民謡風に歌われたりしていた。

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白黒テレビにはカラー放送は映りません。-2

 

うちなー的沖縄

白黒テレビにはカラー放送は映りません。-2

沖縄は何度か通貨の切り替えを経験している。旧日本円からA円あるいはB円という沖縄限定の軍票だったのが、ドルに変わった。それから日本円という変遷がある。B円からドルへの変化は単位そのものが計算しやすかったが、ドルから円が大変であった。もともとUSドルと日本円との関係は固定相場であったが、「復帰」を目前にしていきなり変動相場になったものだから混乱に拍車をかけていた。とにかく貨幣価値が日々変わるというのは疲れるというものだ。
学生時代から就職していた頃にかけて、よく石垣島へ遊びに行った。石垣島を拠点に八重山の島々には中学生の頃から何度も足を運んでだ。石垣島には父の知り合いがいて、そこに泊めてもらっていた。そこは石垣邸ユースホテルということで、実に居心地のいい場所であった。そこの娘や娘たちとも仲がよくて、そのこともあってかユースホテルの会員というよりも特別会員の扱いであった。翌朝の朝食用の食材を冷蔵庫から持ち出して酒の肴にしたことがある。そこの娘も一緒だったから始末が悪い。朝食を準備するために冷蔵庫を開けたらいきなり空っぽであるから、ユースホテルを運営するおばさんは大変だったと思う。酒の味は石垣で覚えたようなものだ。ひんぱんに通っていると多くの友人ができた。その中に市長さんの息子もいた。二人で美崎町という飲食街にも顔を出すようになっていた。だが、自由になる小遣いは少ない。そこで市長のキープを狙って息子と二人で深夜徘徊していた。
政治かたるもの、あきれるくらい方々にキープしている。それを気づかれないように少しずつ、一杯だけずつ二人で飲んで歩く。
なにしろ、何か特別の用事があるわけでもなく日がな一日を過ごしてブラブラしているものだから暇を持て余している。新聞も隅々まで読みまくることになる。「出船入船」、「死亡広告」など重箱の隅々を突くようにして新聞に見入る。
八重山の新聞で思い出すのだが、本当に地元紙という感じで楽しい記事が多かったその中で、「アルバイト求めています」という広告記事が印象として残っている。会社側とかの求人広告ではなく、どこか仕事ありませんか、私に仕事させてください、という求職広告であった。なんだか牧歌的でさえあった。
石垣島にもオキナワから沖縄へという時代の変化が押し寄せていた。
「復帰」前のテレビはNHKしかなく民放はまったくなかった。そのNHKも当時は日本放送協会ではなく、沖縄放送協会であった。OHKと総称していた。電波を島から島へと飛ばすマイクロウェーブがなく、飛行機で番組テープが那覇から運ばれていた。沖縄島までは鹿児島から島々を経由して同時に見られた。ということもあって、八重山や宮古では、「おはようございます。朝のNHKニュースです」は夕方の番組であった。大晦日の「紅白歌合戦」は都合により正月番組となる。
もちろんのこと、カラー放送ではなく白黒の時代である。それが八重山でもカラー放送時代を迎えることになった。そこで新聞にOHKから奇妙な新聞広告がでた。
奇妙な刻刻とは、「お手持ちの白黒テレビにはカラー放送は映りません。買い替える必要がありますのでご理解ください」というようなものであった。きっと「私の家のテレビはカラーが映らないという苦情が押し寄せたに違いない。そこで慌てて広告を出したのではないだろうか。

行き行きて大阪、冬の陣・夏の陣。

 

うちなー的沖縄

行き行きて大阪、冬の陣・夏の陣。
親しい友人がいる。職場では同僚でもあるし、そもそも同じ日に就職辞令をもらった仲である。それ以上に個人的にも家族付き合いをしていて、お互いの家を行き来している。彼は力持ちで優しい。
 力持ちというくらいだから、筋肉隆々とまではいかないまでも、少なくとも腕などは太くてたくましい。沈着冷静な男で、いつでもどっしりと落ち着いている。落ち着きすぎるきらいもあるが、それはそれで欠点ではなく、むしろ彼のプラス面であろう。周囲からの信頼感はすこぶる高い。
 その彼が、昨年の夏、ソワソワしていて妙に落ち着かなかったりなんと息子が夏の全国高校野球大会で甲子園にレギュラーとして出場した。そう、あの「月に向かって打つ」打法やら、左利き捕手・三塁手を擁し、これまでのセオリーを頭から無視して世間を圧倒言わしめたチームの一員として。水島新司が描く「ドカベン」の世界から抜け出してきたかのような超個性派集団だった。
「息子たちのチームは、県予選ではけっこう、いいところまで勝ち進むかも」と、やや期待を込めて語っていた。ベスト8くらいのところで、首を約7度ほど傾けて「そろそろ負けるのかなと思ったのだが」と、不思議がっていた。これがベスト4に勝ち進むと、首を15度くらい傾けて、やや身体のバランスを失っていた。こうなると、勢いは山本リンダ状態でどうにもとまらない。とうとう県予選の決勝まで「まさか、まさか」で駒を進めた。頂点までは残り一つ。まさかの甲子園は目の前だった。人間、不思議なもので、一等宝くじに当たってしまった時のセリフ同様に、「どうしよう」という心理になるものらしい。
 そしてめでたくもまさかの県代表を勝ちとってしまった。相手校の名将たる栽監督以上に、沖縄中が呆気にとられてしまった。
 この子は幼い頃から知っていた。幼いどころか世に出てくる前から知っていた。父親とはそれくらいに長い付き合いである。高校一年生のときは、丸坊主頭に「勝」という字を浮き立たせて、一年後、二年後に備えてスタンドからメガホンを持っての応援専門の野球部員であった。体格的に恵まれていたわけではなかった分だけ努力したことだろう

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