那覇市公設市場は、ゴルゴ13風オバサンだらけ。ー2

 

うちなー的沖縄

那覇市公設市場は、ゴルゴ13風オバサンだらけ。ー2

やがて別の候補者がやってくる。その次の候補者もやってくる。その次の次もやってくる。市場のおばさんたちは実に民主的である。誰分け隔てなく一斗缶をガンガン。候補者を差別も区別もしないというのはすごいことだ。こちらあたりは見事な商売人だと思う。話が少しそれた。土井たか子の話であった。彼女がやはり市場に入ったときのこと。例の如く、市場のおばさんたちは鳴り物入りで迎えたのだが、そこからが少し違っていた。衆議院議長であるから、屈強な私服警官のSPが周囲を取り巻いている。ニッポンの警察もこのSPの配置には随分と気を使っているようにみえる。ミスター・ポマードと呼ばれ、顔のアブラギッシュさとは裏腹に経済政策にやや慎重気味だった政治家は、身長面でも小柄だったが、それに合わすようにSPも小柄系屈強で固めていた。そこへいくと土井たか子は大柄であり、SPもそれに合わすように大柄系屈強となってくる。ということは単なるミーハーでは近寄れない。ところが、有名人に近づいてみたい、できたら触るか握手の一つもと考える市場のおばさんのパワーは、蟻一匹這い出る隙間もない厳重な警備陣をいとも簡単に突破したらしいのだ。

何しろ魚、肉が商品の市場であるから、当然のように切れ味鋭い包丁などがある。警備陣からすればこれほど危険な場所はない。ゴルゴ13クラスだったら、逆に見分けやすいのだろうが、普通のおばさんというのは見極めがどうにも難しそうだ。

プロレス少年は突進することで目的を成就する。おばさんたちも突進することで目的を達成する。世界に誇るニッポン警察だったが、結果は完敗であった。おばさんたちはスルスルと世界の中田選手が送るスルーパス状態を受けて、土井ゴール前に殺到した。そして、恐怖の撫でまわしをはじめたという。頬を両手で撫でまわし、「あいーっ、ちゅらかーぎー」とか、無遠慮にさすりながら「はっさ、ツルツル肌だねー」とかなんとか。それはほとんど、沖縄の宝塚とも称され、沖縄芝居のアイドルを生み続けた「乙女劇団」の芝居の鑑賞状態であったという。乙女劇団は歌劇が多かったが、沖縄女性は過激が多いのかもしれない。

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いまや東京にしかない、沖縄的沖縄顔。

 

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いまや東京にしかない、沖縄的沖縄顔。

所要があって東京に行ってみた。ひとつは娘の大学受験に付き合ったこと。後のひとつはCD制作のためだった。(と、とりあえずは予告宣伝的)。たまに沖縄みたいなこころから出掛けていくと、東京は面白いところである。なんだか一番に近い外国だという印象すら持ってしまう。外国での、たとえ短いパック旅行でも食べ物や言葉には不自由する。それからすると相当に楽なところである。これは随分前に女性雑誌での「旅先での失敗談特集」みたいなもので見た話し。せっかく外国、憧れの外国、それも初めての外国。地元の素敵な男性に声をかけてコミュニケーションをはかるべく、まずは中学校で教わった基本的かつ簡易な英会話を駆使してみた。英語の先生からは「勇気をもって会話すれば旨くなる、絶対に通じる」と教わった。そして記念的な第一声を発した。「はぅ・まっち」と。

相手の外国人は驚いて逃げた。いまほど不況ではなく経済が絶好調の時で、エコノミックアニマルと言われていた頃だ。「ナンダ、コノ女ハ。金デ男ヲ買イ求メ二来タノカ」と想像したことだろうよ。

その点、TOKYOは都合がいい。言葉は完ぺきに通じるし、それに食べ物だって比較的だが口に合う。電車だってはまごつくが慣れてくればたいしたことはない。

羽田で降りて、モノレールで浜松町へ。そこからJRで渋谷に向かった。混んでいた電車でのこと。明らかに顔の濃い集団がいた。二十三、四歳の七、八人の若い女性集団だった。この顔の濃ゆさだが、華人系ではないし、コーリア系でもない。もちろんジャポニカでもない。かといって東南アジア系でもない。それをぜーんぶチャンプルーにしたような混合系なのである。目鼻立ちがはっきりしているし、それに何といっても言葉だった。車両中に響くくらいに沖縄らしさを巻き散らしていた

どうも同級生の結婚式があって、ある地方から集団で東京に出てきたという感じである。おそらく沖縄系に違いないと妙に確信していたら、ついには決定的な単語が出てきた。「でーじ綺麗かった」とか「面白かったわけよ」などが混雑する車両を制圧していた。

顔が濃いと書いた。これはすばらしいことである。華人系にしろ、コーリア系にしろ、ジャポニカ系にしろ、どちかかというと顔に確固たる主張はない。ところでこの「でーじ」「わけ」娘達たるや、いずれもモデルではないかと思えるような一群だったのだ。これで純沖縄の言葉に徹すれば、いよいよ国籍不詳になったはずである。

言葉で思い出したことがある。東京に住むある県人から聞いた深刻な話である。

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いまや東京にしかいない、沖縄的沖縄顔。-2

 

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いまや東京にしかいない、沖縄的沖縄顔。-2

仮にAさんとよぶ。彼が東京に移り住んで二十数年になる。こつこつ働いて念願のマイホームを手に入れた。並大抵のことではなかったという。それはそうだろう、ゼロからのスタートで、人には言えないほどの苦労は多かったはずだ。(ということを実際に言ってはいた)。言葉一つとってみても、いかに東京という異境に慣れ親しむにに苦労したことやら。数年は気を付けているつもりでも、ついつい沖縄言葉が発せられる。それをやっとの事で克服したわけだ。それはマイホームの夢と並行するようなもので、ついには言葉そのものも獲得したのだった。

その彼だが、言葉そのものは「しちゃって」調で立派な東京弁なのだが、顔つきだけは無修正だった。これだけはどうしようもない。医療保険のきかない形成外科に行ったって、顔の骨格そのものがウチナージラー(沖縄顔)であり、哀しいかな顔の骨格まではかえられないのだ。

言葉、マイホーム、それも仕事もまあまあである。顔つきに少々の不満はあっても幸せであった。ところが不幸は、前触れなくいきなりやってくる。

例の沖縄ブームてやつだ。「復帰」の頃から、ときどき大波でブームが訪れる。あの時は栽監督率いる沖縄水産高校の活躍。あるいは安室の活躍など。沖縄がバンナイバンナイ(バンバン)露出していた。それは苦節二十数年のAさんにとっても嬉しい限りであった。水産の時はテレビの前で久しぶりにヒーヒー小(ぐゎ)(そう

指笛)も吹いてみた。涙もヒーヒー小などで、久しぶりに沖縄ナショナリズムに目覚めたりもした。しかし「俺は東京でしか生きられない男になってしまった」という思いもある。丁度、その頃からだ、おかしくなったのは。ナニ、池澤夏樹が沖縄移住だって。ナニ、宮本亜門が沖縄移住だって。ナニ、澤地久枝が沖縄移住だって

東京人になりたくて努力に努力を重ねてきたのに、どうして東京人達は東京を捨てて沖縄に住むのだ。Aさんの嘆きはしばらくは続く。

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一九七八年七月三十日 午前0時の大混乱。

 

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一九七八年七月三十日

午前0時の大混乱。

「Wの悲劇という小説があって映画化された。730(ナナ・サン・マル)の悲劇というのもあった。一九七八年七月三十日午前0時を期して、交通区分を一気に変えてしまったことによる。

沖縄は一九七二年までアメリカが施設建を握ってた。その関係で、貨幣もドルだった。ボクが小学生の頃だったと思う。そこには米軍のMPがカービン銃で武装して不測の事態に備えていた。大人たちがひどく緊張してマネーチェンジしていた。ボクも大人たちに伍して、家の後ろのバナナの幹を削り込んだ秘密金庫(バナナ幾重にも皮があり、表面だけを残し空洞にする)から持ち出した、ワタシグヮーを握りしめて並んだ記憶がある。おばぁたちは、ドルという言葉がなかなか言えなくて、「ロル、ロル」、セントのことを「シェン、シェン」と発音していた。

ドルがそうであったように、そして交通区分もアメリカ式だったのである。つまり

車は右側を走っていた。交通区分は一国一制度が原則らしく、それまで慣れ親しんだ方法が変更されることになった。

おかしなもので、当時はそれほど考えもしなかったが、あと後になって首をひねることになる。一国一制度はいいとして、そうして沖縄が全国に合わす必要があったか。沖縄以外の全国が沖縄に合わせてもよかったのでは。一見、無茶のようだが実はそうでもない。そもそも沖縄のほうが世界的であった。日本の、車は左側路線というのは世界的に見れば圧倒的に少数派であり、小が大を飲み込む構図になっていた。これをやっていれば、海外に出かけた沖縄の人間は相当に危険ない目に遭っている。右だったのが左になり、海外では再び右に。もう、こうなるとグシャグシャになって、何が何だか判断がおかしくなるのは当然であろう。

とにかく一夜にして区分が変わるということはどういうことなのか。いろいろな不憫さが生じてくる。考えによっては、それまでの沖縄の車はほとんどが外車並みの

左ハンドルであった。車窓から腕を出して、左腕を日焼けさせるのが若い人にとってはステイタスだということを耳にしたことがある。ところが沖縄ではそこらへんのニーニー、ネーネーに限らず、たとえそれがおじさんでも、おじぃでもおばぁでも左腕を窓の外に出す分だけ日焼けしていた。

ところが普通の車はヘットライトの角度を調整してどうにかなるにせよ、バスだけはどうしようもなかった。出入り口がまるで逆になる。これだけは解決の方法がなく、バスの全てが新車になった。全てが新車になれば、当然のことながら中古車があふれる。それは忽然と沖縄から消えてしまった。やがて中国を旅行した人たちから、「万里の頂上付近で見かけた」とか、「福州市の街を走っていた」とかの情報が伝えられてきた。まるで池澤夏樹も「マシアス・ギリの失脚に出てくるようなシーンだ。外国では都合がよかったわけだ。

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一九七八年七月三十日午前0時の大混乱。-2

 

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一九七八年七月三十日午前0時の大混乱。-2

新車になったのはよかったが、案の定というか、やはり心配された事故が起こった。それまでの慣れというのは一夜にしては克服できなかったようだ。カーブを曲がれずに畑に落ちてしまった。翌日の新聞にも大々的に載っていたが、運転手が照れくさそうにコメントしていたのが印象として残る。

困ったのは車だけではなかった。商売人もおおいに困った。なにしろいきなりである。それまでの場所で培ってきた常連客との関係が一夜にして崩れる。例をあげるとすれば、一番に大きかったのは釣具屋であろうか。伊具屋を利用する人は、釣りの途中で店を利用する。ということは、おのずと海に向かう側でなければならない。ところが730ということで店舗を逆に移動させることはできない。それまでが海に向かっていたのが、それ以降は海から帰る時に釣具屋さんに行くことになってしまったことになる。他にもある。最近、那覇のフェースとフード店の事始めについて書いたことがある。そこでは「福々饅頭」というのを取り上げだ。高良さんという夫婦が、那覇の牧志というところで饅頭屋をやっていた。当時としては、テイクアウトもできるということだ超人気店だった。なにしろホカホカである。冬場などは、家の子どもたちの鵜関二兆方式だために饅頭を懐に入れて大事そうに持ち帰る。饅頭も冷めないし、自分も暖まるというい一石二鳥方式だった。持ち帰ると言えば、アイスケーキの出始めのことだが、やはり子どもたちに食べさせようと持ち帰ったお父さんがいた。子どもたちは歓声を上げて喜ぶだろうな、などと路地を急ぐ優しいお父さん。時間をかけて持ち帰ったのはアイスケーキを刺す割りばしだという悲劇もある。おとうさんはひどくがっかりしたが、そもそもアイスケーキの実態を知らない子どもたちは、割り箸にほのかに残ったサッカリンの甘みを味わったという。

話が最近の沖縄における台風のように大きく逸れた。

饅頭屋も730でお店をたたむことになったという。いろいろなところに影響があったが、最大の恩恵を受けたのは自動車メーカーであったはずで、最大の被害者は庶民であった。

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ROLEXはアームバンド代だった。

 

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ROLEXはアームバンド代だった。

アジア全体、あるいは世界中の経済が元気を失っている。バイアグラを次々と投入しても効き目がないほどに深刻ではある。沖縄のメーン通りではある国際通りを歩く沖縄の人間も、約1度ないし2度ほど下向きかげんのように見受けられる。

しかし、そういう中にあって、声を張り上げて、声を張り上げて濶歩する集団がいる。台湾からの人々だ。

ひとり台湾だけがすこぶる元気みたいである。

それにしても不思議な集団である。何もあんなにまで大きな声を出さなくても会話できそうなものだが、とにかく声がでかい。スクランブル交差点で大きな声を出さなくても会話できそうなものだが、とにかく声がでかい。スクランブル交差点で彼らと遭遇しようものなら、たちまちにしてミキサーに放り込まれた果物のような状態にされてしまう。それほどまれにパワーが満ちみれている。

台湾の首都である台北で、「なるほど、そうだったのか」というようなシーンを見かけたことがある。それは夜市でのことだったのだが、人々の食事にかけるエネルギーを目の当たりにした。どうしても下手物としか理解しようのない食材のデモンストレーションに人だかりだった。その脇では、すさまじいばかりの勢いで夜食を胃袋に流し込んでいた。それが若い人ならともかく、かなりの年配のおばあちゃんだっただけに、いよいよ迫力があった。そうかぁ、あの湧き出るようなエネルギー源は食事だったのか。

その台湾からの沖縄への観光客が再び増えている。昨年だと、十四万二千人が訪れたという。七、八年前だと十五万人を超えていた。減った理由は、ショッピング観光からリゾート観光への変わり目ということなのだろう。「恋をしたら沖縄へ」

というのはどこかの国の航空会社のキャッチコピーだったのだが、台湾でも同じバージョンがあるのでは。

以前がと、確かに台湾からのショッピング観光が目立っていた。那覇空港の国際ターミナルに積まれた団体客の荷は、飛行機がこれらの荷を載せて、はたして飛べるのだろうかと心配するほどに積まれていた。全員がりんご箱、全員が電化製品。

全員が「運び屋」だんではと思えるほどだった。

那覇市内でも幾つかの台湾料理店がある。ラーメン中心のとってつけたような中華料理店ではなく、明確に台湾料理と銘打っているだけに、料金は手頃ながらかなりのものだ。そもそも素材から違う。素材は野菜にいたるまで台湾から運んででくるという。店の馴染みの「運び屋」さんが店まで戸口配達をする。船舶や航空機を使って運ぶわけだが、帰れは当然のことながら、同じように沖縄から台湾まで「物」

を運ぶことになる。

中近東あたりから日本に石油を運ぶタンカーだと片道だけの荷を載せるのだが、

台湾「タンカー」は合理的な運航をしていることになる。バイアグラいらずの台湾の元気さが、ここらあたりにもうかがえる。

運び屋で思いだしたことがある。

全国紙新聞の片隅に小さな記事が載っていた。沖縄が本土に「復帰」する直前の頃だったと記憶しているので、おそらくは七0年か七一年あたりだったのだろう。その記事とは、沖縄出身の学生が、羽田空港でふらついているところを逮捕されたというものであった。シンナーや大トラの銘酊状態で逮捕されたわけではない。ある重いものを身体に隠し込んでいて捕まっていた。それが何かというと、金の延べ棒でった。細工されたチョッキか何かに延べ棒数十本が隠されていて、そのために見つかってしまったわけだ。

デューテーフリーで売られている「金の延べ棒風チョコレート」しか知らないので、本物の金の延べ棒が一本あたりの程度の重量なのかはとんと想像もつかない

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ROLEXはアームバンド代だった。-2

 

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ROLEXはアームバンド代だった。-2

この沖縄県出身学生氏はなにも銘酊だから捕まったのではない。ふらつくだけで捕まるのであれば、もっと身近を鍛えればいい。問題は金の延べ棒だったからだ。

沖縄からアメリカに留学することを米留といい、本土に留学することを日留、すなわち日本留学と称した。この日留には国費留学と自費でかかなう二種類があった。経済的にいまでも親御さんは大変なのだが、当時だと現在の比ではない。そこで

日留生たちは自己防衛的に、あるいは字膣経済的に「運び屋」を行い自らの学費と生活費を稼いだ。

もっとも手っ取り早いのが時計であった。考えてみたら、当時の日本というのは百々に発展途上国であり、その裏返しとして海外旅行などは現金の持ち出し規制などの制約があった。当然のことながら外国製品には多額の税が課せられることになる。そうなると金はあっても欲しい品が手に入らない。そこで沖縄の学生たちが運んでくる時計などが貴重な品として、東京のアメ横などの店頭に並ぶことになる。需要がある分だけ供給体制も確立していった

ROLEXやΩを直接、アームバンド状で二の腕に巻いての、これはこれで立派な密輸であった。

時計だけではなかった。時計は一攫千金的な価値があったが、小市民的学生は無難なところで、「ネスカフェ」だったのではないだろうか。インスタントのコーヒーが貴重という時代があったのである。コーヒーそのものがアメリカそのものであり、当時としては相当贅沢品だったのだろう。

こうしてみると、台湾からのお客さんに対して随分と親しみが湧いてくる。

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てんぷらの匂いと香水の匂いが廊下中に 渋谷の「恋ぶみ横町」であそんだ。

 

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てんぷらの匂いと香水の匂いが廊下中に

渋谷の「恋ぶみ横町」であそんだ。

70年代頃の学生運動華やかしい頃にたびたび集会が行われた宮下公園とJR渋谷駅との中間くらいに横町はあった。一歩足を踏み込んだ途端に、<あっここは昭和初期の映画のセットではないか>と感じたくらいにキマっていた。渋谷という街が

若者以外は歩くことすらはばかれるような、悪く言えばがさつな街だけに、横町は際立っていた。中央の通りを挟んでカウンター中心の小さな一杯飲み屋が軒を連なれている。せいぜい4,5人も入れば満杯になりそうな狭さである。ガラガラと戸を引くといきなり座敷というところも。そういう店は、通路で靴を脱ぐ仕掛けになっている。丁寧に並べられた靴が印象深い。

渋谷を見たのだからと、今度は新宿に足を伸ばしてみた。そこには「おもいで横町」があった。昼の12時だというのに、すでに飲み始めている様子。ああ、人生を楽しくドロップアウトしているなと言えなくもない。渋谷も新宿も渋谷も新宿も共通するイメージは「しょんべん横町」って感じ。そういえば那覇の桜坂にも「しょんべん横町」と称される場所があった。たしかに、しょんべん臭いという印象がある。大島監督の「夏の妹」の舞台にもなっていた。その桜坂の近くには「てんぷら坂」というころもあった。細い坂道に、オキナワンてんぷら屋が並んでいたから

そのように呼ばれていた。今回は桜坂と「てんぷら坂」は縁が深いという話をする

桜坂という飲食街は、舞台で例えて言えばかっては看板女優的存在であった。

沖縄でも最大級の飲み屋街で、いつも賑わっていた。時代の返還とともに、いまは看板女優の座にはないが、それでもかつての栄光をセピア色に身を隠しつつ渋い脇役の光を放っている。桜坂が全盛期の頃、飲み客のあっちへフラフラ、こっちへフラフラおじさんたちで通りはあふれかえっていた。あの頃は「掛け金おことわり」

なんて無粋な店はなかった。飲むたびごとに書けという具合。ある程度まとまったところで支払うのが通常で、サラリーマンなどは給料日かボーナスの時に一括して支払っていたようだ。

これはボク自身が勤める某市役所で目撃したこと。給料日やボーナス日、市役所の廊下は桜坂のママさん、従業員軍団で鈴なりになった。それまでの掛けを支払って

もらうためである。店ではどちらかというと志村けんばりの白塗りママも多かったが、市役所に来る頃は昼間ということもあって、化粧はやや落とし気味ではある。

それでも安物の香水をプンプンさせていた。羽振りのいいホステスさんはマックスファクターの香水の香りであったらしい。歳の頃、平均して40歳くらいだったのでは。こちらが若かった分だけ、とっても年増に見えた。なかなか支払わない客の多いので、ここでママさんは一計を案じる。客と親しい馴染みのホステス達を引き連れて市役所を訪れる。「あなたは○○さんところ、」、「あなたは△△さんところ、」「あなたは□̻□̻さんところ、」というふうに一斉に網をかけるようにして集金が始まる。これは警察のガサ入れに近いものがある。

網をかけるというよりは、どちらかというとこの集団、鵜飼みたいなものといったらお叱りを受けそうだ。鵜を束ねるのがママさん鵜匠で、ホステスの鵜が狙った獲物に向かう。その際の餌がてんぷらである。そろいもそろっててんぷら、それも熱チコーコーのてんぷら持参している。

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てんぷらの匂いと香水の匂いが廊下中に渋谷の「恋ぶみ横町」であそんだ。ー2

 

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てんぷらの匂いと香水の匂いが廊下中に渋谷の「恋ぶみ横町」であそんだ。ー2

「てんぷら坂」で買い込んできたものだろう。市役所の中の廊下が、てんぷらから立ち上がる湯気で霞んでいた、というのはオーバーな話だが、それでも香水と混ざったような匂いがかなりたちこめていたものだ。

いまでこそ給料などは自動振替方式になっているが、以前だと直接手渡し方式であった。ここに飲み屋とサラリーマンの攻防戦が発生する。ほとんどの人は次のこともあるし気持ちよく支払うだろうが、なかには都合があって支払えないという人もいる。

とっさに机の下に潜る人、急に寝たふりをする人、さまざまである。凄い猛者もいた。廊下に集金のママを発見するや、ふわりと身のこなしも軽やかに窓を超えてバランダに逃げる御仁もいた。普段は、どちらかというと身体を動かすのは苦手そうな人だけになおさらである。この荒技は、桜坂というところが昔から火事の多いところで、飲んでいて「すわっ。火事だーっ!」という場面も多かったらしく、そうなると2階だろうが飛び降りることで自らの命を護るという習慣が自然と身についていたのだろうか。そこで鍛えた技だったとも言える。

てんぷら攻撃を察知するレーダーに長けた先輩などは、近くに喫茶店に待機して後輩達に給料袋を持って来させたりと様々な技を持ち合わせていた。

最近では見かけなくなったてんぷら攻撃だが、妙に懐かしい。いい時代だった。

※オキナワンてんぷら 天婦羅ではなく、あくまでもてんぷらである。てんぷらーとのばすと感じが出る。ソースで食べるのが定番。

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嘉手納のおじいと嘉手苅のおとぅ

 

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嘉手納のおじいと嘉手苅のおとぅ

親しい友人にYさんという人がいる。彼はかれこれ三十数年、人生の三分の二を

東京という異境の地で過ごしていることになる。東京に行くたびごとに泊めてもらっているし、娘が受験の時も世話になりっぱなしであった。

そのYさんが学生時代に沖縄に帰省したときのこと。彼の帰省に合わせて東京の友人たちも沖縄に遊びに来た。沖縄初体験はこうゆう形も多い。丁度、旧盆に合わせていた。旧盆であるから親戚回りを行う。友人たちもおのずと同行することになった。

沖縄の旧盆は地域によって若干の違いがあるが、おおよそほぼ同じ形式である。旧暦の七月十三日にウンケー(先祖霊のお迎え)で、十五日にウークイ(送り)ということになる。その間、先祖が喜びそうな、実は生きている人も喜びそうな御馳走をつくり、トートーメ(沖縄式仏壇)にお供えをする。先祖が食べたかナー、と思えるころにウサンデーといってご相伴に預かる。子ども心にこれが待ちどうしかったものだ。

初日はウンケージューシー(お迎え用硬め雑炊)で、二日間の中日が素麺や団子、そして送りの日がオキナワン料理オールスターみたいな重箱料理が出た。今でもこの基本形は変わらない。最近の子どもがこうゆう料理に見向きもしないのは、いつでも食べられるからかもしれない。貴重な御馳走であった。ゆえに盆明けは食べ過ぎなのか、それとも幾度と温め直したりするせいか、やたらとワタグルグルー(腹を痛めてグルグルーする様子)する子どもが続出していた。

Yさんと東京から来て友人たちは共に親戚回りをした。おそらく旧盆の最終日であったと思われるが、嘉手納でのこと。親戚のおじいさんは寡黙であったという。本当は寡黙ではなく口下手だったのかもしれない。寡黙と口下手は同じようで実はそうではない。

今でもときどき見かけるのだが、思考法がヤマト口ではなく、沖縄の言葉で組み立てるお年寄りがいらしゃる。例を挙げると、「そこへ行くから」というのを「そこへ行くから」と表現してしまう。これなどは沖縄方言の直訳そのものから来ている。近しい親戚の子が友人たちを連れて遊びに来ている。礼儀として何か声をかけるべきなのだが、どうにも口をついてこない。

そのうち盆用の料理が出される。一緒に食べている間も沈黙の空気は流れ、暑い沖縄での扇風機を果たしていた。せっかく訪ねて来てくれたのに。嘉手納のおじいさんは少々焦っていた。何か声をかけなくては。

おじいさんが声をかけるべく、脳で組み立て始めた。<ヤサヤサ、マジェー、シシカラヤサヤー。トー、カマブクンマーサンテー(そうだそうだ、豚の三枚肉に手を出した。いいぞ、いいぞ、蒲鉾もおいしいぞ)>。友人たちは次第に料理へ箸を付けだした。誰かが揚げ豆腐をゲットした。

まさに、まさにその時だった。

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