うちなー的沖縄
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山本富士子と桃井かおりと連日あってしまった。
昨年、八重山へ遊びに行った。夏休みということで小学生の末娘も連れていった。4日間の予定が6日間になったのは台風のせいだった。
十数年前にも、そのときは上の娘を連れていったのだが、同じように台風にぶつかった。それは鳩間島でだったのだが、命からがらという感じで鳩間から石垣島行きの船に乗った。相当に危なかったらしく、途中から海上保安庁の第11管区の巡視艇が寄り添うように併走していた。
今回は飛行機が飛ばないというだけで、特別に危険というわけではなかったが、娘からは不評だった。那覇へ戻れない分だけ石垣島で飲んで遊んでいた。こういうときの友人たちというのは嬉しい存在である。「戻れなくて大変でしょう」と夜な夜な誘ってくれる。戻れなくて大変だったのは本当である。那覇で、どうしても片づけなくてはならない仕事があったのだが自然とは喧嘩もできない。
友人からの携帯電話を持って出かける。娘は宿でテレビを観ていたはずだが、父親が動くとなると一緒に行動せざるを得ない、それでブツブツ言いながらの付いてくる。学生時代から八重山にはよく通っていた友人・知人は多い。その中の友人夫婦と久々に飲んだ。
その友人氏の親父は島の名士だった。早い話が政治家であった。我々は学生の身であり、酒を飲み歩くほどの金はなかった。ところが友人の父親はいろんな飲み屋に酒をキープしてあった。それを一杯づつ飲んで次の店に移る。つまり一円、ではなく当時は沖縄がアメリカドルの時代だから1セントも出さずにハシゴして歩いていた。そうして歩いているとき、たまたま友人の父親が店にいて、仕方なく自前の酒を注文したことがある。その店は早々と出たのだが、次に来たときは店を閉めていて、なけなしの金でキープした酒はもちろんのこと消えていた。
もう一人の友人が馴染みにしているスナックに出かけた。初老の女性が一人で経営している店で、マスコミの客が多いということだった。店おみたいなの女主は、娘にかまっていた。よっぽどのことでもない限り、こういう若い客は来ない。なにしろ孫みたいな小学生である。なんやかんやいっても娘からすれば飲み屋でありつまらない表情だったのだろう。驚いたことに千円の小遣いまで貰って手にしている。娘はもう少し我慢してみようという顔つきになっていた。娘を店の人に任せて二人はおおいに飲みふけっていた。
千円をもらったことで、臨時小遣いを稼いだという思いがあったのだろうか、隣ではけっこう話が弾んでいるようだった。そのうち、妙な会話が耳に入ってきた。
「おばさんの名前は、富士子。山本富士子の富士子よ」「はぁー?」「山本富士子って知らないの?」というようなちぐはぐな会話であった。それは小学生だとしらないでしょうよ。中学生や高校生、ひょっとして大学生でも知らない名前ではないだろうか。
山本富士子を知っている世代からすれば、それは美人の代名詞でもあった。それを言う姿も面白かったが、それをポカーンと聴いている姿もなかなかのものであった台風のために閉じこめられていたのだが、そのことによる楽しみもあった。娘は寝るまえまでがうるさいのであって、いったん寝てしまえばこちらのものである。
娘は、山本富士子は知らなかったが、桃井かおりは知っていた。例の台風による飛行機の欠航で市内をぶらついていた。偶然にも、以前に二度ほど会ったことのある日本在住のドイツ人と出会った。
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うちなー的沖縄
山本富士子と桃井かおりと連日あってしまった。-2
「あいっ、こんなところで何している」という感じだった。彼の仲間は三人いた。
もう一人の女性だった。あれっ、どこかで会っているのだが、ほんの少しだけ間があいて気付いた。桃井かおりさんだった。本当は以前に会っていたのではなく、映画館やブラウン管で一方的に「会って」いるだけだった。こういう錯覚はときどきある。高倉健が東映のやくざ路線で輝いていた頃、路で行き会った本物のやくざ屋さんが、「うぉっす」と挨拶をするらしいというのを何かで読んだか聴いたかしていた。三人とこちらの二人の五人で遊びに行き、そして夕食も一緒にということになった。テーブルの目の前に女優が坐っている。なんとも不思議な光景だ。娘もそのように思ったかもしれないが、単なるミーハーである父親ほどの緊張感はないみたいである。なにしろ前夜は天下の、「山本富士子」さんともあっており、芸能界には慣れていたのかもしれない。
銀幕やブラウン管の印象とはまったく同じであった。沖縄では「テーテー物事(むにー)」と言うが、つまり舌足らずのしゃべり方はそのままであった。ディナーであった。とういことは最後にデザートも出てくる。注文のアイスクリームが色とりどりに並んだ。味はそれぞれに違うみたいである。桃井さんが、「せっかくだから、交換して食べましょう」と提案し、スプーンごと回してきた。「えっ、これって間接キスでは」。
家に戻り、間接キスだったと報告したら、娘は違うという。自分が舐めて、それをお父さんが舐めたと主張していた。
ういなー的沖縄
アコークローとアコータロ―。
「アコークロー」という店が最近になって那覇の国際通りにオープンした。この店の主が経営していた姪の店は、「缶詰ハウス」と称していた。泡盛とビールがあって、酒の肴は文字通り缶詰だけであった。鯖などの味味噌、水煮、それに蒲鉾やイカの缶詰などが無造作にカウンターに並べられていて、客がそれを指差せばチンで温めて出てくる仕掛けになっていた。
シンプルを絵に描いたような店だったが、そこへ顔を出す客もシンプルであった。そもそもオーナーシェフ(?)のIさんがシンプルそのものの方であった。沖縄を代表する新聞社の名物記者にして名物コラムニストであったが、トアエモアのように、あーる日突然、エイッとばかりに安住かと思われた記者の座を投げ捨てて飲み屋のマスターになっていた。今でもフリーライターという肩書は持っているはずである。客が少ない時にカウンターで原稿を書いたりする。そういうこともあってか、店内にはマスコミ関係者がいうでもとぐろを巻いていた。けっこうのファンを掴まえていたのだが、いつのまにか店のシャッターは降りっぱなしであった。
ある日、職場にIさんからの葉書が届いた。「このたび、「アコークロー」という店を閉店します」みたいな内容であった。以前の店よりも職場からは近い。これが酒飲みからすれば困ったことである。これまでの飲み方パターンは、職場近く→
桜坂→栄町→帰宅という順であったが、これで職場近く→アコークロー→桜坂→
栄町という具合に選択肢が増えてしまう。まぁ、それほど悪い話ではないけれどね
うちなー的沖縄
アコークローとアコータロ―。-2
Iさんの
うちなー的沖縄
白黒テレビにはカラー放送は映りません。
オキナワが沖縄になって30年経過した。いわゆる「復帰」30年ということで、ここぞとばかりに、ヤマトゥから多くの取材陣が押し寄せてきた。私のところにもコメントを求めたり取材があったりした。一応は、「皆さんが騒ぐほどのことはないと思いますよ」と答えることにした。「復帰」20年のときはいろいろと盛り上がってもいた。それはそうだろう、人間だって20年は成人式みたいなものなのだが、30歳になったときにお祝いをしたという記憶はない。「10年後の、謝花さんはどうなってると思いますか」という質問もあったので、そこは、「いま53歳ですから、おそらく61歳くらいになっているのではないでしょうか」と軽く答えておいた。ちょっと冗談がきつかったのかも知れないが、しかし、そんなものだ。
30年ひと昔という感じがしないでもない。交通区分だって、いまとは逆でアメリカ式であった。私は交通区分が劇的に変わる瞬間を目撃していない。その日、八重山の新城島という人口が四人だけの島にいた。もちろん車もない島だったので世間の大騒ぎとは無縁であった。翌々日くらいに那覇に戻ってきたら国道58号などは大混乱していた。
今の国道58号線は、軍用道路1号線といっていた。グアム島に行った時驚いたことは、やはり1号線が沖縄とそっくりであった。中央の車両部分だけアスファルトが敷かれていて、端の歩道部分は単にコーラルが敷かれているだけであった。
実際には雨水の浸透にはその方法が良かったという評価もありはする。あの頃のオキナワの雰囲気が残っていて懐かしくもあった。
貨幣は当然のことながらUSダラーを使っていた。最近になってドルを使う機会があったのだが、どうもオモチャのお金みたいに見える。逆に当時は日本円の方がオモチャのお金に見えたものだ。それは実質上の外国であったということに他ならない。道路も通貨もたちまちにして変わった。お年寄りからすれば大変な変わり様であったはずだ。若ければ若いほど頭の切り替えも早いのだが、その点では沖縄のおじぃもおばぁも相当に苦労したことになる。人間、そう簡単に意識が変われるものではない。以前にも書いたことがあるのだが、そのために交通安全の歌なども沖縄民謡風に歌われたりしていた。
うちなー的沖縄
白黒テレビにはカラー放送は映りません。-2
沖縄は何度か通貨の切り替えを経験している。旧日本円からA円あるいはB円という沖縄限定の軍票だったのが、ドルに変わった。それから日本円という変遷がある。B円からドルへの変化は単位そのものが計算しやすかったが、ドルから円が大変であった。もともとUSドルと日本円との関係は固定相場であったが、「復帰」を目前にしていきなり変動相場になったものだから混乱に拍車をかけていた。とにかく貨幣価値が日々変わるというのは疲れるというものだ。
学生時代から就職していた頃にかけて、よく石垣島へ遊びに行った。石垣島を拠点に八重山の島々には中学生の頃から何度も足を運んでだ。石垣島には父の知り合いがいて、そこに泊めてもらっていた。そこは石垣邸ユースホテルということで、実に居心地のいい場所であった。そこの娘や娘たちとも仲がよくて、そのこともあってかユースホテルの会員というよりも特別会員の扱いであった。翌朝の朝食用の食材を冷蔵庫から持ち出して酒の肴にしたことがある。そこの娘も一緒だったから始末が悪い。朝食を準備するために冷蔵庫を開けたらいきなり空っぽであるから、ユースホテルを運営するおばさんは大変だったと思う。酒の味は石垣で覚えたようなものだ。ひんぱんに通っていると多くの友人ができた。その中に市長さんの息子もいた。二人で美崎町という飲食街にも顔を出すようになっていた。だが、自由になる小遣いは少ない。そこで市長のキープを狙って息子と二人で深夜徘徊していた。
政治かたるもの、あきれるくらい方々にキープしている。それを気づかれないように少しずつ、一杯だけずつ二人で飲んで歩く。
なにしろ、何か特別の用事があるわけでもなく日がな一日を過ごしてブラブラしているものだから暇を持て余している。新聞も隅々まで読みまくることになる。「出船入船」、「死亡広告」など重箱の隅々を突くようにして新聞に見入る。
八重山の新聞で思い出すのだが、本当に地元紙という感じで楽しい記事が多かったその中で、「アルバイト求めています」という広告記事が印象として残っている。会社側とかの求人広告ではなく、どこか仕事ありませんか、私に仕事させてください、という求職広告であった。なんだか牧歌的でさえあった。
石垣島にもオキナワから沖縄へという時代の変化が押し寄せていた。
「復帰」前のテレビはNHKしかなく民放はまったくなかった。そのNHKも当時は日本放送協会ではなく、沖縄放送協会であった。OHKと総称していた。電波を島から島へと飛ばすマイクロウェーブがなく、飛行機で番組テープが那覇から運ばれていた。沖縄島までは鹿児島から島々を経由して同時に見られた。ということもあって、八重山や宮古では、「おはようございます。朝のNHKニュースです」は夕方の番組であった。大晦日の「紅白歌合戦」は都合により正月番組となる。
もちろんのこと、カラー放送ではなく白黒の時代である。それが八重山でもカラー放送時代を迎えることになった。そこで新聞にOHKから奇妙な新聞広告がでた。
奇妙な刻刻とは、「お手持ちの白黒テレビにはカラー放送は映りません。買い替える必要がありますのでご理解ください」というようなものであった。きっと「私の家のテレビはカラーが映らないという苦情が押し寄せたに違いない。そこで慌てて広告を出したのではないだろうか。
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