沖縄の運動会はベンチャーズだ。-2

 

うちなー的沖縄

沖縄の運動会はベンチャーズだ。-2

むかしは人生そのものが短かったから、結婚も早く、出産も早い。人々は精一杯生き抜いて晩年を迎えたのである。そのピークが22歳だったことは、島の行事ごとを見ていると理解しやすい。

この二分類だけが、これはインドネシアのバリ島を見ていても気付くことではある。これもたとえばの話だが、埋葬の時に気づいた。バリの葬式は公開火葬で知れれているのだが、その葬列の出発の時間にこだわりがあった。朝早くから、というよりも数日、場所によっては数ケ月もかけて葬式の準備をするのだが葬列の出発のいよいよというとき、彼らは太陽を気にしていた。太陽が真上にさしかかったとき、おもむろに葬列は出発する。

人に一生があるように、毎日毎日が一日の歴史を有しているのだ。日が昇り、陽が沈むのは人生に重ね合わせるわけだ。太陽は象徴的に人生を表していた。ちょっと文化人類学的に、やや難しい話しをしたが言いたいことはそのことではない。沖縄の「春」や「秋」に当たる部分のことであった。

長い夏が盛りを過ぎたころ、台風が次々とやってくる。台風が通り過ぎるたびに、まるで熱いお湯に水を足すがごとく涼しさを増してくる。こういう時間がしばしば続く。実は子に時期こそ、沖縄におけるベストシーズンではないかと考えている。この時期はいわゆる「秋」である。対して「春」があるのだが、この時期を「うりずん」あるいは「若夏」と称す。語感からしても、いかにも爽やかそうな季語である。ところがこの時期は湿度あくまでも高く、動かなくとも汗が吹き出るほどで、ネーミングは爽やか系だが、実質的にはかなりのものである。

ここで「秋」に登場を願おうか。夏と冬の間のこの時期だが、空気は乾いていて、湿度もかなり低くなっている。心地よい風が吹き、肌を優しく撫でる。一度も行ったことはないが、きっとパリの風と似ているはず。何の根拠もないが、きっとシャンゼリーゼ通りを歩くときのBGM的な風が吹いているのと同じに違いない。

久しぶりに運動会を見てきた。末娘の中学三年の運動会であり、きっと高校生になったら呼んでもくれないだろうし、そもそも運動会というのがあるのかなないのかその日、まさに「秋」晴であった。大気中から湿気が飛んで、あくまでも運動会に相応しい空になっていた。

運動会はいきなりHYの音楽で準備運動がが始まった。そうか、最近はそういう自由さもあるのかと感心した。訊けば、放送クラブの生徒が自主的に選んだ曲だという。自らを振り返り、運動会の全競技中、一番につまらないのが開始直後の準備運動であったこれを思えば、なんと伸び伸びしていることか。

運動会全体が伸び伸びしていた。言い換えれば、生徒たち全員がニコニコしていた。ツレアイとも、それに近所の人とも話していたのだが、「本当にみんな笑顔だね」であった。不思議と言えば不思議なのである。今の中学生って、それほどニコニコしないのではないのではという印象がある。とにかく皆が皆、白い歯を見せているのである。