乙姫ジェンヌたちと泪の清流ー2

 

うちなー的沖縄

乙姫ジェンヌたちと泪の清流ー2

「オキナワはニッポンじゃない」という政策で、米軍政府は特に沖縄芝居の劇団を優遇した。日本全体が沖縄戦を遂行していつ一九四五年八月一日には「沖縄芸連盟」が発足し、翌年のは松・竹・梅という、いかにも目出度そうな三劇団が旗揚げをした。劇団に属する団員は政府の技官として給料が支払われるのである。ナント、公務員芸人の出現である。

知る人ぞ知る御存知大工哲弘は那覇市の職員である。いまから十年前のことだが、当時の那覇市長から、「大工君を文化部門に人事異動させたらどうかね」と、ある職員に相談があった。そのある職員は、「わかりました。ところで大工さんの職名についてはどうしましょうか」と市長に訊ねた。市長は「うーん、どうしようか」と言った。大工さんが文化部門に移動するにあたってそれまでの職名では都合が悪いという。「大工」という職名では都合が悪いですよね。「・・・・」とキョトン。そこで、ある職員はすかさず二の矢を放った。「職名は歌手でしょうか」と提案をした。歌うことが仕事である。市長は「・・・・・・・」と絶句してこの話はジ・エンド。実現していれば沖縄どころか全国でも唯一の「公務員歌手」が誕生するはずであった。本人のためにも「歌手」でなくて良かったのでは。

公務員劇団が誕生して、しばらくすると上間郁子を代表とする女性だけの琉球舞踊ダンシングチームが結成された。そして一九四八年に、奄美大島へ遠征した際に、上間は劇団名を訊ねられてとっさに「乙姫です」と答えてしまった。それまでは正式な劇団名がなかったのである。それ以降は「乙姫劇団」としての人気街道まっしぐらであった。

当時の、沖縄芝居に限らずハワイ公園というのがひとつのステータスであった。はわいは憧れのちであり、パラダイスそのものであった。そこには沖縄系沖縄系の人々も多く住んでいる。乙姫劇団は早くも一九五一年には、堂々とハワイ公演を実現し、四ケ月ものロングランを続けたのである。

乙姫劇団の特長は、女性だけで構成されているということだろう。沖縄の芸能、特に舞台芸能などは男性だけで演じられてきたという長い歴史がある。それゆえ乙姫の出現は革命的でさえあった。人々からは衝撃でもって迎えられることとなった。劇団の人気は尋常じゃなかった。なにしろ沖縄の宝塚と称された彼女たちの舞台は花や蝶が舞うが如くであった。宝塚歌劇団同様に、当時のウチナー美童(みやらび)たちの心をときめかしたし、ついでながらオバァたちの心も胸キュンとさせた。実はアイドル乙姫劇団を最も支えたのは、美童やオバァたちよりも市場で働くおばさんたちであった。

那覇の市場は、独特の雰囲気がある。いまでこそ野郎たちも働いているのだが、ちょっと前までは乙姫同様に女だけの世界であった。沖縄戦で夫を失い女手ひとつで(んっ、ふたつか)子どもたちを育ててきた。必ずしも大きな商いではなく、どちらかというとグナアチネー(小さい商売=薄利多売の行商など)が多かった。そういう女性たちこそが乙姫の熱狂的なファンであった。

熱狂的ファンとはどのようなものなのか。喜納昌吉の「すべての人に心の花を」的である。「泣きなさい、笑いなさい」状態なのだ。沖縄芝居の特色は、ある意味では吉本新喜劇に似ている。徹底的に泣かして、そして笑いがあったりする。熱狂的に舞台を擬視するおばさんたちは、あくまでも役者と一体となって我が身を芝居を投影するのである。

母の日特別公演などのとき、ファンはお重を持って劇場を早くから訪れる。夜の公演に備えての舞台化粧をした女優さんをファンが取り巻く。至福のときである。それはそうだろう、いつも舞台で華を咲かせているスターが目の前にいるのだから。日頃の難儀哀れ(ナンジアワリ)も忘れてしまうさぁ。いよいよ乙姫命という具合になるのではないだろうか。

しかし乙姫劇団とファンの交流はこれくらいのことでは済まない。あるファンがいたとしよう。彼女は初老で、近しい身内もいない独り住まいである。61歳の生年祝いなのだが、子や孫たちや親戚縁者に囲まれての祝いというわけにはいかない。これは淋しいことである。だが、ここで凄いことが起こった。日頃は、贔屓(ひいき)にしてもらっているお返しとして花形の乙姫たちが大挙して彼女の間借り先にやってきて、特別に踊りなどを披露する世界がある。仮に宝塚あたりのパトロンならいざ知らず、名もなく貧しい一ファンのために大挙してジェンヌたちが押し寄せるだろうか。これが乙女劇団たちの神髄というものだ。