うちなー的沖縄
ROLEXはアームバンド代だった。-2
この沖縄県出身学生氏はなにも銘酊だから捕まったのではない。ふらつくだけで捕まるのであれば、もっと身近を鍛えればいい。問題は金の延べ棒だったからだ。
沖縄からアメリカに留学することを米留といい、本土に留学することを日留、すなわち日本留学と称した。この日留には国費留学と自費でかかなう二種類があった。経済的にいまでも親御さんは大変なのだが、当時だと現在の比ではない。そこで
日留生たちは自己防衛的に、あるいは字膣経済的に「運び屋」を行い自らの学費と生活費を稼いだ。
もっとも手っ取り早いのが時計であった。考えてみたら、当時の日本というのは百々に発展途上国であり、その裏返しとして海外旅行などは現金の持ち出し規制などの制約があった。当然のことながら外国製品には多額の税が課せられることになる。そうなると金はあっても欲しい品が手に入らない。そこで沖縄の学生たちが運んでくる時計などが貴重な品として、東京のアメ横などの店頭に並ぶことになる。需要がある分だけ供給体制も確立していった
ROLEXやΩを直接、アームバンド状で二の腕に巻いての、これはこれで立派な密輸であった。
時計だけではなかった。時計は一攫千金的な価値があったが、小市民的学生は無難なところで、「ネスカフェ」だったのではないだろうか。インスタントのコーヒーが貴重という時代があったのである。コーヒーそのものがアメリカそのものであり、当時としては相当贅沢品だったのだろう。
こうしてみると、台湾からのお客さんに対して随分と親しみが湧いてくる。