てんぷらの匂いと香水の匂いが廊下中に 渋谷の「恋ぶみ横町」であそんだ。

 

うちなー的沖縄

てんぷらの匂いと香水の匂いが廊下中に

渋谷の「恋ぶみ横町」であそんだ。

70年代頃の学生運動華やかしい頃にたびたび集会が行われた宮下公園とJR渋谷駅との中間くらいに横町はあった。一歩足を踏み込んだ途端に、<あっここは昭和初期の映画のセットではないか>と感じたくらいにキマっていた。渋谷という街が

若者以外は歩くことすらはばかれるような、悪く言えばがさつな街だけに、横町は際立っていた。中央の通りを挟んでカウンター中心の小さな一杯飲み屋が軒を連なれている。せいぜい4,5人も入れば満杯になりそうな狭さである。ガラガラと戸を引くといきなり座敷というところも。そういう店は、通路で靴を脱ぐ仕掛けになっている。丁寧に並べられた靴が印象深い。

渋谷を見たのだからと、今度は新宿に足を伸ばしてみた。そこには「おもいで横町」があった。昼の12時だというのに、すでに飲み始めている様子。ああ、人生を楽しくドロップアウトしているなと言えなくもない。渋谷も新宿も渋谷も新宿も共通するイメージは「しょんべん横町」って感じ。そういえば那覇の桜坂にも「しょんべん横町」と称される場所があった。たしかに、しょんべん臭いという印象がある。大島監督の「夏の妹」の舞台にもなっていた。その桜坂の近くには「てんぷら坂」というころもあった。細い坂道に、オキナワンてんぷら屋が並んでいたから

そのように呼ばれていた。今回は桜坂と「てんぷら坂」は縁が深いという話をする

桜坂という飲食街は、舞台で例えて言えばかっては看板女優的存在であった。

沖縄でも最大級の飲み屋街で、いつも賑わっていた。時代の返還とともに、いまは看板女優の座にはないが、それでもかつての栄光をセピア色に身を隠しつつ渋い脇役の光を放っている。桜坂が全盛期の頃、飲み客のあっちへフラフラ、こっちへフラフラおじさんたちで通りはあふれかえっていた。あの頃は「掛け金おことわり」

なんて無粋な店はなかった。飲むたびごとに書けという具合。ある程度まとまったところで支払うのが通常で、サラリーマンなどは給料日かボーナスの時に一括して支払っていたようだ。

これはボク自身が勤める某市役所で目撃したこと。給料日やボーナス日、市役所の廊下は桜坂のママさん、従業員軍団で鈴なりになった。それまでの掛けを支払って

もらうためである。店ではどちらかというと志村けんばりの白塗りママも多かったが、市役所に来る頃は昼間ということもあって、化粧はやや落とし気味ではある。

それでも安物の香水をプンプンさせていた。羽振りのいいホステスさんはマックスファクターの香水の香りであったらしい。歳の頃、平均して40歳くらいだったのでは。こちらが若かった分だけ、とっても年増に見えた。なかなか支払わない客の多いので、ここでママさんは一計を案じる。客と親しい馴染みのホステス達を引き連れて市役所を訪れる。「あなたは○○さんところ、」、「あなたは△△さんところ、」「あなたは□̻□̻さんところ、」というふうに一斉に網をかけるようにして集金が始まる。これは警察のガサ入れに近いものがある。

網をかけるというよりは、どちらかというとこの集団、鵜飼みたいなものといったらお叱りを受けそうだ。鵜を束ねるのがママさん鵜匠で、ホステスの鵜が狙った獲物に向かう。その際の餌がてんぷらである。そろいもそろっててんぷら、それも熱チコーコーのてんぷら持参している。

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てんぷらの匂いと香水の匂いが廊下中に渋谷の「恋ぶみ横町」であそんだ。ー2

 

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てんぷらの匂いと香水の匂いが廊下中に渋谷の「恋ぶみ横町」であそんだ。ー2

「てんぷら坂」で買い込んできたものだろう。市役所の中の廊下が、てんぷらから立ち上がる湯気で霞んでいた、というのはオーバーな話だが、それでも香水と混ざったような匂いがかなりたちこめていたものだ。

いまでこそ給料などは自動振替方式になっているが、以前だと直接手渡し方式であった。ここに飲み屋とサラリーマンの攻防戦が発生する。ほとんどの人は次のこともあるし気持ちよく支払うだろうが、なかには都合があって支払えないという人もいる。

とっさに机の下に潜る人、急に寝たふりをする人、さまざまである。凄い猛者もいた。廊下に集金のママを発見するや、ふわりと身のこなしも軽やかに窓を超えてバランダに逃げる御仁もいた。普段は、どちらかというと身体を動かすのは苦手そうな人だけになおさらである。この荒技は、桜坂というところが昔から火事の多いところで、飲んでいて「すわっ。火事だーっ!」という場面も多かったらしく、そうなると2階だろうが飛び降りることで自らの命を護るという習慣が自然と身についていたのだろうか。そこで鍛えた技だったとも言える。

てんぷら攻撃を察知するレーダーに長けた先輩などは、近くに喫茶店に待機して後輩達に給料袋を持って来させたりと様々な技を持ち合わせていた。

最近では見かけなくなったてんぷら攻撃だが、妙に懐かしい。いい時代だった。

※オキナワンてんぷら 天婦羅ではなく、あくまでもてんぷらである。てんぷらーとのばすと感じが出る。ソースで食べるのが定番。

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嘉手納のおじいと嘉手苅のおとぅ

 

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嘉手納のおじいと嘉手苅のおとぅ

親しい友人にYさんという人がいる。彼はかれこれ三十数年、人生の三分の二を

東京という異境の地で過ごしていることになる。東京に行くたびごとに泊めてもらっているし、娘が受験の時も世話になりっぱなしであった。

そのYさんが学生時代に沖縄に帰省したときのこと。彼の帰省に合わせて東京の友人たちも沖縄に遊びに来た。沖縄初体験はこうゆう形も多い。丁度、旧盆に合わせていた。旧盆であるから親戚回りを行う。友人たちもおのずと同行することになった。

沖縄の旧盆は地域によって若干の違いがあるが、おおよそほぼ同じ形式である。旧暦の七月十三日にウンケー(先祖霊のお迎え)で、十五日にウークイ(送り)ということになる。その間、先祖が喜びそうな、実は生きている人も喜びそうな御馳走をつくり、トートーメ(沖縄式仏壇)にお供えをする。先祖が食べたかナー、と思えるころにウサンデーといってご相伴に預かる。子ども心にこれが待ちどうしかったものだ。

初日はウンケージューシー(お迎え用硬め雑炊)で、二日間の中日が素麺や団子、そして送りの日がオキナワン料理オールスターみたいな重箱料理が出た。今でもこの基本形は変わらない。最近の子どもがこうゆう料理に見向きもしないのは、いつでも食べられるからかもしれない。貴重な御馳走であった。ゆえに盆明けは食べ過ぎなのか、それとも幾度と温め直したりするせいか、やたらとワタグルグルー(腹を痛めてグルグルーする様子)する子どもが続出していた。

Yさんと東京から来て友人たちは共に親戚回りをした。おそらく旧盆の最終日であったと思われるが、嘉手納でのこと。親戚のおじいさんは寡黙であったという。本当は寡黙ではなく口下手だったのかもしれない。寡黙と口下手は同じようで実はそうではない。

今でもときどき見かけるのだが、思考法がヤマト口ではなく、沖縄の言葉で組み立てるお年寄りがいらしゃる。例を挙げると、「そこへ行くから」というのを「そこへ行くから」と表現してしまう。これなどは沖縄方言の直訳そのものから来ている。近しい親戚の子が友人たちを連れて遊びに来ている。礼儀として何か声をかけるべきなのだが、どうにも口をついてこない。

そのうち盆用の料理が出される。一緒に食べている間も沈黙の空気は流れ、暑い沖縄での扇風機を果たしていた。せっかく訪ねて来てくれたのに。嘉手納のおじいさんは少々焦っていた。何か声をかけなくては。

おじいさんが声をかけるべく、脳で組み立て始めた。<ヤサヤサ、マジェー、シシカラヤサヤー。トー、カマブクンマーサンテー(そうだそうだ、豚の三枚肉に手を出した。いいぞ、いいぞ、蒲鉾もおいしいぞ)>。友人たちは次第に料理へ箸を付けだした。誰かが揚げ豆腐をゲットした。

まさに、まさにその時だった。

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嘉手納のおじさんと嘉手刈のおとぅ。-2

 

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嘉手納のおじさんと嘉手刈のおとぅ。-2

「これ豆腐。東京にもありますか」

と、おじいさん。それまでの座は扇風機状態であったが、いきなり瞬間冷房状態に変わったと思われる。おじいさんの価値観だと、豆腐は沖縄固有のものであるとの確信があった。ひょっとしておじさんは、シシ(肉)カマブク(蒲鉾)というヤマシロの単語が思い浮かばなかったに違いない。そして豆腐という共通の言葉が重なったところで、満を持したかのように声を出したのだろう。

話は変わっても、とはいってもほとんど変わらない話を。

那覇の国際道りのど真ん中に沖縄三越がある。沖縄を訪れる観光客で、三越」があることに意外だと驚く人もいるが、香港にもシンガポールにもハワイにもあるわけだから、それほど驚くことではない。逆に東京に三越があったと驚く沖縄の人もいる。

さきほどは嘉手納のおじさんの話だったが、今度は嘉手刈のおとぅの話。つまりは嘉手刈林昌さんのことについて。知る人ぞ知る、知らない人も知っているくらいに沖縄島唄界の最長老なのだが、この方の逸話は沖縄の夜空の星の数ほど多い。

東京での公演があって・その合間をみて散策としゃれた。「そうか、ここが東海道五十三次で有名な日本橋か」と思ったかどうかはわからないが、沖縄のスーパースターはとにもかくにも日本橋界隈に立った。

見上げるばかりのビル、ビル、ビル。東京に空がないと言ったかどうかは別にして、はじめてみる雲をつくような東京に嘉手刈林昌は感心した。しばらくの間、スーパースターの目はゆっくりとパーンを繰り返した。

「んっ」と、そのときある建物に釘付けになった。

嘉手刈林昌いわく、「うちなーヌ三越ン立派ヤッサー」と。これでは解らないので、直訳してみる。「沖縄三越は立派だ、偉い!」と言ったのだ。これまではますます解らないので、心象風景を文字に表してみる。

<沖縄にある三越は立派だ。頑張って東京にまで支店を出して>ということになる。つまり彼は、沖縄の三越が本店で、日本橋の三越本店を支店だと勘違いしたのである。

偉大なる、そして立派な勘違いではないか。

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沖縄高校生制服事情とハイカラおじさん

 

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沖縄高校生制服事情とハイカラおじさん

先日、仕事からの帰り、バスに乗ると同時にいきなりスコールに見舞われた。降りた停留所の近くで雨宿りをしていた。そこは県立高校の近くなのだが、彼女および彼は何事かもなかったかのように、傘をささずに平然と雨の中を歩いている。雨なのだから、少しは慌てるとかキャッキャッするとかのリアクションがありそうなものだが違った。校則でもって、けっして雨が降っていても道路で走ってはいけない、とは謳われてはいないだろう。それにしても久しぶりに見る妙に懐かしい光景だった。

子供が傘なしで歩く姿は日本ではなく、これって東南アジア文化だと思いこんでいた。しかし、この確信は、韓国でいとも簡単に覆されてしまった。ソウルの女子高校生や女子中学生もやはり傘をささずに濡れて明洞の繁華街を歩いていた。

くそ暑いという共通項がある東南アジア、そして沖縄あたりが雨を恐れぬ女子高校生の北限だと思いこんでいたがどうも違う。

無理矢理ではあるが、2つの結論を導き出した。1つは、沖縄って、きっと制服を大事にしない民族性、あるいは民俗性があるのでは。結論を急ぎすぎるが、あと私服が好きで、その分だけ制服を大切にしないのでは。

東京あたりの女子高生もし私服は好きなのだろうか、やけに制服姿が目立ってはいる。これについては、池澤夏樹さんが、那覇市の『市勢要覧・1998年版』のインタビュー記事で、「東京のひとは若くて自信がないから横並びで、自分を隠して同じパターンのファッションになる」と一刀両断に分析して見せていた。そうなのだ、度肝を抜くような超個性に見えて実は逆の形がそこにはある。

それでも沖縄の高校生は全国的に見ても、かなり制服王国だと思われる。高校ではおそらく1.2校くらいが私服OKなのでは。その反動もあるのか、沖縄の子たちは学校以外では意外とファショナブルの装いを凝らしているのかも。そしてそれが沖縄独自の若い世代のファション感覚を創りだしているとも言える。

一番身近なところに観察対象としての女子高校生がいた。つまりボクの娘である。これが実に正しい女子高校生で、ピッチ(PHS)にミニにルーズソックスと、常に三拍子揃っていた。さすがに「あみだ」ばばールックではなかったが、それでも親としては眉を曇らせていたものだ。さすがに三年間も履いているせいか、かなりくたびれた制服になっていた。ブラウスにはシミが目立ったりしていた。それでも気にしない。この感覚が不思議であった。

福岡で発刊されている「FS(25号)」の中で、長崎の小川内清孝さんが、「なぜ長崎にルーズソックスは流行らなかったのか」という面白い文を寄せてあった。長崎の高校は校則が厳しく、普通のソックスだけが許されているらしい。さて、わが、沖縄はどうだったか、気になるところだ。おそらくは各学校の校則で云々はなれていると思うが、単に守られていないということなのだろう。

沖縄でしばしば社会的問題になることがある。それは、中学生や高校生の深夜俳諧ということだ。それも制服姿でというのが問題視されたりする。そして、根本的原因は、範を示すべき大人達の行動が槍玉にあげられたりもする。「はいさいおじさん」「徘徊おじさん」こそが

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沖縄高校生制服事情とハイカラおじさん。-2

 

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沖縄高校生制服事情とハイカラおじさん。-2

あらためるべきことだと指摘される。大人たちの問題から大人達から目をそらすためなのか、制服姿で街を歩く生徒が問題として再び浮上してくる。「けしからん、それも制服で」ということになる。でも、これっておかしいよね。堂々と学校を表示する制服を着用しているのだから当てはまらない。

男子の制服についても、ちょっと触れておかしいと単なる女子高校生好きとの汚名を被るかもしれないもで、ここでキャメラ風にパーン。

沖縄を訪れる修学旅行生は多い。そして国際通は、せかいじゅりを闊歩する。事件はその国際通りのほぼ真ん中に位置する喫茶店「インシャーラ」あたりだった。ボクのすぐ前を沖縄おばさん2人、その前を修学旅行生が数人歩いていた。彼らは制服姿なのだが、ズボンが例の腰で履くというよりも太股あたりで履くような格好である。おばさんたちは、とても心配してとうとう「危ないよー」と注意していた。アクシデントでずり落ちたと思ったみたい。高校生たちは、沖縄中に響きわたるように

大笑いした。負けずにおばさん2人は、世界中に響きわたるように

大笑していた。沖縄では珍しいファションであったのである。

男の子の同長ズボンはまったく流行らなかったが、しかし、女の子のルーズソックスは沖縄中で瞬く間に広まった。ボクはいつも娘に上目遣いで、つまり三白眼的になって言っていた。「どうしてみんなと同じルーズソックスなの。沖縄には、以前からカラーソックスという素晴らしい個性があるではないか」と。これはじじつである。修学旅行生が沖縄での同じ女子高生の印象として、地元女子高生のカラーソックスであったという。ルーズソックスが流行る以前の話である。それだけ個性的だったわけだ。

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THE HUHATU-DAN

 

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THE HUHATU-DAN

不発弾。その名称からして何とも不気味な存在である。これをコレクションとして持とうという気にはなれない。ところで、北九州にある

泡盛屋で見かけた時の話だが、立派な不発弾が店に飾られていた。知らずに不発弾を背にして坐っていたら、これは「不発弾ですよ」と店の主に教えられ、途端にマブイ(魂)をポトンと落としてしまった。

沖縄があって、地形が変わるほど米軍が砲弾を撃ち込み、それに対抗するように日本軍も撃ちまくった。その結果がこれだ。不発弾の処理には、あと五十年も要すると自衛隊関係者が言っている。質の悪いことに、目に見えない地中深く眠っているというのが不気味ではある。

そこで今回は不発弾に関する話題を2題

[不発弾2題。その1]

ある日、家に帰ってみると郵便受けに、なんの色気もないチラシ枚。

「金城ダムで不発弾が発見されました。○月○日○時から撤去作業を行いますから避難して下さーい」みたいなチラシである。

沖縄全体では日常茶飯事ではあっても、いざ自分のところだと、そう

頻繁にあるわけではない。「親父1人を残して逃げたのか―っ、お父さんは不発弾の餌食にされてもいいのかぁー」と一瞬は不信感を持ったが、よく考えてみたらボクを除いた家族は昨日から小旅行に出掛けた。仕方がない、避難誘導の役所職員がやってきてくるまでには避難しておこう。

せっかくの日曜日ではあるから、ついでに遊びに出掛ける格好をして

自宅を後にした。我が家のすぐ隣には小さな空き地がある。その空き地の向こう側にHさん宅があり、そこのおばあちゃんがひなたぼっこでもするように椅子に掛けていた。

「あいっ。おばあさん、ひんぎらなさい(一緒に避難しましょう)」

と誘ってみた。ところがこのおばあちゃんは不発弾作業は知っているが、いっこうに避難する様子はない。まさか戦争中のことを思い出して、「私は自分の家を守りたい」などと考えているのだろうか。

もう一度誘ってみた。

「兄さん、逃げる(避難する)範囲はここまで」と言って、掛けている椅子のすぐ前の地面を指差した。不思議に思って、市役所から配られたチラシを確認してみる。これで全てを納得した。なんと、避難範囲はボクの家の隣の空き地までで、おばあさんの家からははずれていたのである。

不発弾処理の避難範囲はその爆弾の重量による。大きくなければ大きいほど避難範囲が広がる。それにしても半径のラインのすぐ外側の違いは本当に目と鼻のさであった。外れているのをわざわざ逃げる必要はあるまい。2人でひなたぼっこして過ごした。ここだと万が一、

爆発しても目の前までしか飛んでこないはずだ。

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THE HUHATU-DAN。-2

 

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THE HUHATU-DAN。-2

「不発弾2題。 その2」

首里の竜潭で不発弾が発見された。首里城跡に琉球大学があった頃である。相当の大型爆弾らしく、かなりの広範囲で避難しなければならない。この不発弾、ひょっとしたらOさんが関係している可能性がある。竜潭と聞いて思い出したのだ。首里城近くの琉大男子寮(現沖縄県立芸術大学)があった場所に元々は沖縄師範学校があり、そこは旧日本軍の第三十二司令部が設置されていた。その関係で、ここら辺り一帯は米軍の砲弾が雨あられの如く降り注がれたところだ。当然のことながら不発弾も多かったことだろう。市役所の先輩あるOさんの自宅は竜潭のすぐ近くである。子供の頃、池の近くにあった不発弾を何名かで転がして水に沈めた記憶があるという。子ども心にも水の中だと安全と考えたのだろう。きっとその時の不発弾だったのではないだろうか。

不発弾処理は、自衛隊の処理班だけが目立ってしまうが、実は市町村職員がその縁の下の力持ちに徹している。チラシ配り、い難誘導のための各家回り、時には土嚢(どのう)積みに加わることも。ボクは琉大女子寮周辺を受け持つことになった。

多分、独身時代の頃だったと思う。なにしろ女子寮である。あこがれの女子寮といっても過言ではない。恐る恐るではなく、どちらかというとワクワクしながら玄関口に立った。ところがこちら側の甘い期待とは裏腹に、ファスナー代わりのボタン式のジーンズ姿で、それに2列に穴がずらりと並んだ太いベルトをした小柄の女性が現れた。「私は寮長ですがあなたは誰の許可を得て寮に入ってきたんですか」ときた。誰の許可って、玄関まで入ってこないと話もできないのに、とついつい口を尖らせて役所言葉でしゃべってしまった記憶がある。不発弾の爆発は人を選ばないのにね。

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沖縄的台風

 

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沖縄的台風

暑い日が続くが、その暑さもそろそろ後半にさしかかってきた。

後半というからには前後半の基準があるはずなのだが、はっきりしない。

お盆を中心として、「暑中お見舞い」という葉書の書き方があるくらいだから、

それも一つの分け方だろう。ところが沖縄は例外なく旧暦で盆を迎えるので必ず

しも当てはまらない。そもそも沖縄における季節感というのは新暦より旧暦がぴったりである。年末頃にやたらと暑いなと思ったら、実は旧暦では十月でしかなかったという感じなのだ。

そこで強引に分かれる基準として台風というのを思いついた。

南太平洋で発生した台風は、やがて勢力を増して沖縄あたりでピークに達する。沖縄までは割とノロノロ運転で、過ぎたころから一気呵成にスピードを増してくる。

猛威を振るう台風なのだが、その発生元は実に可愛いものだ。台風を人間の大人の身長くらいに例えれば、台風の元は胎児くらいではないだろうか。台風の元は見たことはないが、モンスーンの元はみたことがある。

赤道の、まだ向こうの小島でみかけたモンスーンの発生は、風が微妙に吹いて、椰子の葉がサラサラと揺れた。ただ、それだけだった。人々はそれで季節の、一つの区切を感じる。ところで沖縄でも台風の感じ方ってものがある。

衛星の発達した現代では、台風の発生から近づいてくる様子、さらに規模に至るまで総てが手にとるように解る。それでも皮膚感覚があって、人々は台風の襲来を予感する。風が生暖かいのである。2,3、日前から南風が妙な、肌にまとわりつくようにして吹いてくる。それでもって台風が近づいていることを実感するわけだ。

経験というのは凄いことで、ベテランの漁師あたりにあなると、あらゆる天候を

予知することができる。

これは実際にあった話だが、ある老人漁夫が沖縄の「復帰」に伴う法整備の中で

体験したこと。「復帰」前までは、琉球政府の法律が適用されていたから、あれも駄目これも駄目というようなものではなく、ある意味ではかなりアバウトな法体系があった。それまで必要でなかったことが「復帰」でもって漁師といえども小型船舶免許が必要となった。しかし、そこは既得権みたいなもので、対象者全員に免許を与える仕組みであったらしい。

ところが試験は試験である。テスト問題は簡単だったらしいのだが、とにもかくにもペーパーテストは実施された。困ったことに老漁夫は文盲であった。出題された文字がさっぱり読めない。これではテストにならないと、試験官は問題を代読して

出題を告げた。

「もし舟が沖に出て急に風が吹いてきたらどうしますか、おじいさん?」

老漁夫は少し考えた。試験官は当然の回答を期待したはずである。おじいは、

首を約7度ほど傾け、おもむろに、そしてきっぱりと答えた。

「うんなばすねー、 初(はじ)みからわとーぐとぅ、海や歩(あっ)かん!」

こういう時には沖には出ない、海を歩かない、というのである。こででは方言を直訳しすぎるので、もう少し懇切丁寧に説明をしてみる。ベテランの漁師にとって、

明日の天候ぐらいは、前日の風向きやその日の雲の流れなどからして、舟を出す前から結論は出ている。俺はプロだから、沖に出て急に風が吹くかは、あらかじめわかっているわけさ。そういう時は最初から舟をださないわけよ、俺、プロだから。

台風の話であった。

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沖縄台風。-2

 

うちなー的沖縄

沖縄台風。-2

2,3日前のなま暖かい風で台風を予感し、前日ぐらいからの断続的な雨でいよいよ台風に備える気構えが整う。沖縄人は自然体で空手のように下腹に力を入れて固める術を知っている。気構えといっても、農家は別としても一般のウチナーンチュ

は以前ほどには構えなくなっている。そもそも建物からして違う。沖縄の建物の9割がコンクリート建築であり、いまや、沖縄中が要塞化している。窓はアルミサッシなので吹き飛ばされないし、赤瓦の屋根でもしっかりと固定されているから屋根がなくなることもない。

最近は確実に台風の襲来が減った。襲来というよりも台風の発生そのものが減っている。地球の温暖化などがその原因だというが、そういう点からすると単純に喜んでばかりはおられない。やはり地球規模でガス抜きをしてあげないと、などと

地球に優しい言葉がついつい口をついてしまう。

台風がおおかった頃は、それこそ丸一日、下手をすると丸二日も家に閉じこめられ

ていた。風そのものの音はないのだが、風が電線を震わせるピューピューという音は不気味であった。しばらくすると必ず停電になった。台風のイメージは停電であった。それでも沖縄の人々は常に台風に備えていた。風が強くて外には出られないが、家には素麺や缶詰や芋くずなどの非常食があった。あの頃は美味しいとも思えなかったが、近ごろでは妙に懐かしい。それほどまでに馴染んでいた。

で、最近の台風がどうかというと、これが情けない立場に置かれているように思えてしょうがない。数そのものも減ったが、弱いのである。こう書いてしまうと農家の方々に再び叱られてしまうのだが、実際に弱いのである。

そのせいか、沖縄の人々は不敵にも台風ともなれば海岸部に出かけてしまう。海の荒れ具合で台風の大きさを確かめるわけだ。それを一家でもって実行している家庭も絶対に多いと思う。どうして確信をもって言えるかというと、それをボクがいつも実践してるから。

お断り 旅行者の皆さんは絶対にマネしないで下さい、危険です、すぐ死にます。

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