沖縄音楽の裏面と表面。

 

うちなー的沖縄

沖縄音楽の裏面と表面。

沖縄通の親しい友人がいる。氏名は訳あって表に出せないが、通称ミック・ジャガーということになっている。ローリング・ストーンズのミック・ジャガーのパロディーなのだが、とりあえずは公務員係のロッケンローラーである。なにしろ、オールディーズ系の有名バンドのオーディションを受けたくらいである。幸か不幸かオファーがなくてアファーになったが、気を取り直して公務員を続けている人物である。歌唱力は自他ともに認めるところであるが、欠点はミック・ジャガーみたいに顔が濃くない点にあったと思う。それと幾分かはセクシーさにかけていたのかもしれない。彼が結婚をするというので、披露宴をやりたがらない彼のために強引に披露宴を挙行したことがある。彼に合わせてライブハウスで行うことにした。あのモンパチも活躍していたライブハウスである。派手目がいいだろうということで、国際通りに面した入り口付近に、パチンコ屋新装開店の時に見られる派手な花輪を10本並べておいた。

私が原稿を書く場合に、彼は欠かせぬ存在であり、特に音楽関係となると凄ざましいばかりに力を発揮してくれる。昔の曲名が思い出せないなどと電話をいれると、即座に回答が返ってくる。一発選曲ならぬ一発回答男である。そのミック・ジャガーに例の如く電話をいれた。「ジャガーレコードで一番に売れた曲はなんねぇ?」「およげタイヤキくん」ですね「次売れたのは?」「ピンカラトリオの「女の道」です「女の道」はA面だが、B面の曲を教えてほしいのだけど」ちょっと待ってください、調べてみますので10分くらい時間下さい、と言う。計ったかのように、10分後に談話がきた。

「わかりました、「沖縄のひと」です。約326万枚売れていますね」

 

 

沖縄音楽の裏面と表面。-2

 

うちなー的沖縄

沖縄音楽の裏面と表面。-2

ほんとうに訊きたかったのは、「沖縄のひと」の存在であった。ここでレコードについてCD世代やDVD世代のために簡単な説明をする。レコードはA面とB面があり、裏表にレコード針用の溝があって音が出る仕組みになっている。一応はA面がメインとなって発売されるのだが、実に面白いことにA面が売れるとB面も同時に売れることになる。当たり前の話だが、発売枚数は奇跡的に同じ枚数となる。

「沖縄のひと」は326万枚も売れたのである。浜崎あゆみもGLAYも、宇多田ヒカルも安室奈美恵も真っ青な数字である。統治で言うならば、全国の家庭の十所帯で聴かれていたことになるのでは。だが、不思議なことに肝心の「沖縄のひと」を覚えている人がいないのである。実は私も知らないし、おそらく沖縄の人間でもほとんどの人がその存在すら知らないと思われる。幻の「大ヒット」曲ということだ。このA面とB面の関係だが、これは沖縄レコード業界にもあった。手許に数字があるわけでもないが、メイドイン沖縄のレコードで一番のヒット曲はフォーシスターズの「丘の一本松」と大工哲弘の「山崎ぬアブジャーマ」であろう。「丘の一本松」は沖縄芝居のタイトルそのままの曲で芝居同様に大ヒットした。沖縄における高校生たちの文化祭では定番の芝居である。

「山崎ぬアブジャーマ」というのは八重山を代表する民謡で、歌詞の内容は、かなりスケベ―的である。アブジャーマというおじいがいたのだが、このおじいには二人の愛人がいた。周囲からしたら、それではあまりにも不道徳すぎるということで、一人は本妻に、一人は妾にしたという、なんとも羨ましいような決着を図ったことが謡われている。

少し話題をそらすが、この絶倫おじいのことを謡った。「山崎ぬアブジャーマ」だが、私の職場の隣にある開南小学校の運動会では、行進曲としてこの曲が流されていた。教師たちは知ってか知らずか、私のほうが赤面していた。

この「山崎ぬアブジャーマ」はいわゆるB面であった。ということは「丘の一本松」がA面ということになる。A面とB面の関係は複雑である。「山崎ぬアブジャーマ」ではないが、いったい誰が本妻で、誰が妾なのか、あるいは誰が(A)で、誰が(B)なのか、なかなか判断が難しい。

本来だと同じ歌い手がA面とB面で構成しそうなものだが、ここがかつての沖縄音楽界の不思議な部分であった。適当、という言葉はどうかと思うが、しかしテーゲーとしか思えないような組み合わせでもってA面とB面が決まっていたように思う歌い手たちの意思などまったく無視するかのようにレコードが出来上がっていた。

最近では気軽にCDが出せる時代になったが、レコード時代は、それこそ面倒な手順を踏んでの制作だったという。インディーズなどという言葉すらもない時代であった。そういうなかで、無謀にもレコードを、それもシングルではなくLP版を出した友人がいた。和宇慶文雄である。彼は「歌手」という肩書を手に入れた。その彼が渾身の力をいれて製作したLPだが、期待したほどには売れなかった。これは風の噂なのだが、彼の故郷である泡瀬海岸で沖に向かってレコードを投げて遊んでいたという風聞が那覇まで届いた。可哀想に、よっぽど売れなくて、処分に困ったのかレコードを海に投げる気持ちはいかばかり。後日談だが、「んじ、レコード投ぎたんでぃな」(レコード投げ遊びしたって?)」と私が訊いたところ、やはり、「歌手」というプライドがあったのだろうか、問いには答えず、「レコードでぃーしや、ゆー飛ぶんどー(レコードって奴は、実によくとぶものだ)」と言っていた。

社長は、もっと真面目に泡盛をつくれーっ!-2

 

うちなー的沖縄

社長は、もっと真面目に泡盛をつくれーっ!-2

「ウィ、あなたが新垣博一さんなのご活躍ですね、ウィ」という雰囲気だったさらに言葉を続けて「ウィ、貴方はどうして八重ヤな出身なのにシンガキなの。普通、八重山ではニイガキでしょう、ウィ」と畳み掛けてくる。さて、困ったのはニイガキさん、おお、ロミオよロミオ、あなたはどうしてジュリエットなの状態であった。ニイガキさんはそもそも八重山の出身ではなく、座間味島のニイガキである。ウィウィと訳の分からないフランス語みたいに迫ってくる女性に口を少し尖らせて、「こっちの勝手でしょ」という感じになっていた。

止まり木友達の社長は豪快な方である。口は極めて悪く、いつでもバカタレを乱発する。こちらも手慣れたもので、私は影の営業部長で、よく行く飲み屋に社長のところの銘柄を置かして貰ったりしている。ただ、知り合いだからではなくて実際に美味しい酒であり、沖縄以外からの評判はかなりなものである。

ところが、最近になってこの酒を見かけることが少なくなった。あまりのも評判が良くて、ほとんどが本土向けに出荷されているためである。「それはないじぇ社長」と、携帯に電話を入れたのだが、社長はいつもと違って大きな身体を縮じめるようにして8携帯から相手の姿は見えないが、おそらくはそうであったはずだ)、蚊の泣くような声で、「ごめんなさい」をしていた。

最近になって、ついにいつもの飲み屋で久々に逢った。酒はどうなっているのですか!と言う前に先制の返事が返ってきた。大きな身体を折り曲げるようにして「ゴメン、ゴメン」を繰り返した。この関係、いつも原稿が遅れるミヤジャト重と編集者との関係に似ているものだから、社長の気持ちもわからないわけでもない。しかし、ここで甘えかしてはいけない。根をあげているのはボクだけではないのだ。この銘柄を愛している店の人たちとあることを考えている。デモをしてシュプレヒコールで声を挙げる。それも交際通りで。「社長は真面目に酒を造れー!」とか、「泡盛ファンを不安にするなー!」などと道行人に訴えようと思っている。ただデモだけでは面白くないから、フォークギター持って、頭にはバンダナでもキリリと締めて、馬鹿でかい声でがなりたてるようにして、歌ってけばいよいよ効果があるかも知れない。「俺たちは社長の酒が好きだー、社長の造る酒は最高だー」などと、つまり誉め殺し作戦である。きっと、道行ウチナーンチュや観光客は引いてしまうに違いない。これこそが作戦であり、社長はついに堪えきれなくなって、「バカッタレ、造ればいいんだろう」と言うはずである。それほどまでに好きな銘柄が飲めないということは辛いのである。ところで、いつもの店での久々の再開であったが、社長は自分の銘柄の泡盛ではなくて他社の酒を飲んでいた。

社長も辛いのね。

社長は、もっと真面目に泡盛をつくれーっ!

 

うちなー的沖縄

社長は、もっと真面目に泡盛をつくれーっ!

酒はよく飲む。まずは生ビールを一杯か二杯飲んで喉を潤す。

ではという感じで泡盛に移る。暑かろうが寒かろうが断固として湯割りなどしない。やはり氷との相性がいい。最近はウッチンで割ったりもするが、それでも氷は必需品である。それにしてもウッチンは身体にいいということで、需要が相当に伸びているという。でも、不思議な話だ。ウッチンとセットで酒を飲んで健康になろうという不逞な輩が周囲には多い。まっ、いいか、という感じでもないが。

那覇の人間であるから、基本的には那覇で造られた酒を飲む。ここらあたりはかなりのこだわりがある。酒造所の税金は那覇市に落ちるのだから、ここは断固として譲れない。

ある飲み屋で、某酒造所の社長と知り合いになった。止まり木で肩を並べている内に、なんやかんやとユンタクをしていた。「そうか、君も、ミヤジャトか」ということで何となく意気投合していた。酒を飲んだら、原則的には意気投合するようにしている。

話を戻す。同じミヤジャトさんだが、「君は垣花か」と訊いてくる。那覇近郊でミヤジャトだと、たいていは垣花出身ということになる。「いいえ、与儀です」と応えたのだが、どうしてミヤジャトだのに垣花ではないのだ、とばかりになんとなく納得していない様子。

これと似たようなことを思い出した。本の編集のことでだったと思うが、ボードーインクの新垣博一さんと飲んでいるときの話。その場所も、ミーグルーになった同じ居酒屋だった。二人で打ち合わせと称して飲んでいたのだが、ある人が我々の席に乱入してきた。これも同僚なのだが、ただしこの人は女性であった。

随分と酒が入っている様子であった。

咲かせてみます 勝利の花を

 

うちなー的 沖縄

咲かせてみます 勝利の花を

 

島の各地に貼り巡らせたポスターのコピーが目を引いた。

熱く燃えるこの身体

誰も止めることはできない

この想い

咲かせてみます勝利の花を

一見、何のコピーかと思うほどだ。なにやら演歌っぽいし、男と女の壮絶な恋愛のようでもある。コピーから目をパーンしてみると、そこには「軽重量級優勝旗争奪戦」と鮮やかな朱でもって文字が描かれている。やはりボクシングかプロレスのタイトルマッチとしか思えない。

でも違った。

一群が王者を取り巻くようにして跳ねながらやってくる。チャンピオンはその名にふさわしく威風堂々としている。鍛え上げられた肉体美がそこら中に振りまかれる

「ワイド―、ワイドーワイドー」

おそらく小学校の高学年くらいであろう少年たちが独特の太鼓を打ち鳴らしながら先頭を往く。そのすぐ後ろからは一塊になって少年、中年、それになぜかしら若い女性たちも続く。戦争中の進軍ラッパを「パッパラパ、パッパラパ」と吹き鳴らす者もいる。

主役は露払いの少年たちをはべらして、ゆったりとまるで牛のようにノッシノッシと辺りを威圧しながらやってくる。あっ、牛のようにではなく、牛そのものの歩みであった。

徳之島は闘牛の本場である。沖縄も盛んだし、四国には宇和島がある。しかし、徳之島は一つも二つも抜けている感じがする。以前もそうだったが、今回も沖縄から多くの闘牛ファンが島を訪れていた。同じ闘牛でも何が違うのだろうか。沖縄では鼻綱を括ったままだが、徳之島ではガチッと牛と牛がぶつかった瞬間に鼻綱を切るという違いはあるものの、それほどの決定的な違いとは言えない。実際、徳之島と沖縄では、けっこう牛のトレードも行われているようで、闘牛大会に出場する牛の旧姓は沖縄姓であったり徳之島姓であったりする。

もともとが農家の娯楽として発達したことは沖縄も徳之島も同じである。インドネシアのマドゥラ島では農耕牛を使ってのレースがあるが、これも農閑期を利用しての数少ない娯楽として発達したことに相違はない。

ならば、いったい何が違うのか。

若い人である。牛の取り巻きもさることながら、会場内には圧倒的ともいえる若者が詰めかけていた。そもそも今年の正月元旦には、「昭和55年生成人記念大会」開かれていた。昭和55年生まれの同窓生たちが主催して、何と闘牛大会を開催していたのである。闘牛大会といっても、そう簡単なことではない。大会運営者には、おそらく一千万円を超える金額が必要なはずである。それを新成人たちがやってのける。市長に向かって、クラッカーを投げつけたり、単に集団心理でもって会場で酒をラッパ飲みしたりと、日本中の新成人の印象をすこぶるおとして、のちほど情けないほどの泣きを入れた甘ちゃん連中とはわけが違う。

 

咲かせてみせます勝利の花をー2

 

うちなー的沖縄

咲かせてみせます勝利の花をー2

若い人が数多くと書いたが、それがいか程のものか、その一端を。沖縄島中部での闘牛を何度か見たことがある。そこでは、どちらかというと男中心で、それもやや年配者が多い。女性の観客はほとんど見受けられず、いたとしても飼主の家族くらいという印象を受けた。それが徳之島ともなると様相が一変する。

驚いたことに、どうも闘牛はデイトスポットになっているようなのだ。

「今日のデイトはドライブにしようか」

という彼。それに対して彼女は、「んーん、伊仙の全島若手花形闘牛大会がいいな」などとなる。

こんな具合だから、会場内は若夫婦と子ども、おじぃと孝行孫娘、おばぁと嫁などと数々の組み合わせで客席に坐っている。なかでも目を引くのは、女の子たちのグループである。もちろん、中学生くらいの少年たちが一塊になって熱狂的に応援している風景が多いのだが、女の子たちがついつい目立ってしまう。

試合は次々と展開されていくのだが、ときおり、携帯電話を片手にした女の子が会場内から飛び出して、「勝った、勝った、勝った」と誰かに報告をしていたりする。まるで、「前畑ガンバレ、ガンバレ、前畑勝った、勝った、勝った」状態なのだ。

一方、少年たちの活躍も目立ちはする。大応援団に囲まれて会場入りする際の、牛をひっぱる役目はたいていが高校生くらいである。一様にピアスをしていて、髪は闘牛焼きというよりは人工着色としての茶髪が多い。得意げに牛を引く姿は頼もしい限りだ。

会場周辺では、あいかわらず「ワイドー、ワイドー」の掛け声が響いている。宮古島においても「ワイドー」は用いられるのだが、ここでは牛に気合を入れている感じ。飼主宅から闘牛場までは専用の運搬車で運ばれてくるのだが、勝った後は、運搬車に若い親衛隊が乗り込んで、それこそ「ワイドー、ワイドー」の嵐である。荷台で飛び跳ねながらであるから、車全体がポッコンポッコンと上下に揺れていた。

会場では勝った牛に、幼い男たち数名が牛に乗せられて手踊りをしていた。この幼い子たちも自然と闘牛の血が植えつけられるのだろう。これこそ伝統という感じがした。

ところで、負けた牛はどうなるのだろうか。場合によっては再起不能なほど、手傷を負うことだってある。きっと、食べられてしまうのだろうな、と考えていたのだが違った。自分たちでは食べないという。心から愛しているのだ。

嵐を呼ぶ沖縄の結婚披露宴。

 

うちなー的沖縄

嵐を呼ぶ沖縄の結婚披露宴。

沖縄の披露宴について以前にも書いたことがあるし、他の機会でも何度か書いたことがある。今回も結婚披露宴について書くが、少し違う角度から見てみよう。

台風6号は日本列島の太平洋側に沿って北上し猛威を振るったが、続く台風7号も間髪いれずにやってきた。そもそもこの台風7号は妙な奴で、かなりの意思を持った台風であった。6号の軌跡をまったく同じようにたどるという、まるで犯人を尾行する刑事みたいな奴であった。普通の台風だと数日前から生暖かい風を吹かせ、人々の皮膚感覚に台風が近づいていることを知らせる。ところが7号は何の前触れもなく、夜這いでもするかのようにそーっと忍び寄ってきて、そしていきなり沖縄に襲いかかってきた。

4万5千5百世帯が転電に見舞われ、空や船の便にも多大な影響を与えた。風圧はいよいよ強まり、道を歩くのも困難を極めた。足は前へ出るのだが身体全体は進めない。タクシーに乗っていても底から持ち上げられるような振動に見舞われた。それでもある目的で外出をしなければならない事情があった。

「この度、私達はかねて婚約中のところきたる7月14日に結婚式を挙げることになりました」という案内状が届いた。職場の同僚同士の結婚披露宴であった。そしてその日、台風慣れしているはずの沖縄の人間でもかなり躊躇するような強風が吹いていた。しかし困ったもので、たとえ風が吹こうが嵐がやってこようが、いったん決まった日取りの変更は不可能であるらしい。会場であるホテルの都合もあるのだろうか。それとも花も嵐も踏み越えて結婚するのだという新郎新婦のみなぎる決意だったのか、とにもかくにも披露宴は嵐をついて決行されることになった。

嵐を呼ぶ沖縄の結婚披露宴。-2

 

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嵐を呼ぶ沖縄の結婚披露宴。-2

大雨と強風対策の格好でホテルまで出向いた。こういうとき、革靴なんて愚も骨頂である。そもそも靴下が濡れて気持ち悪い。それなりに相応しい格好というものがある。いわばTOPということ。足元は当然のことながらビーチサンダルが最適である。リュックにスーツとYシャツにネクタイ、それに靴と靴下と祝儀袋の一式を入れて、その上から大きすぎるほどの雨合羽で身を包んだ。以前にバイク通勤をしていた頃は、大雨には常にそのような格好で臨んでいた。着替えのためにホテルのトイレに急いで駆け込む。なんだか制服から私服に着替える女子学生の気分であるし、ジェームスボンドが海から這い上がってきてウエットスーツを脱ぎ捨てスーツ姿に変身する感じで、こういう格好はけっして嫌いではない嫌いどころか、どちらかというと好きの属する。それらしく服装を整えて会場へと入る。それにしても招待された人々は偉いなと関心をする。雨、風をはねのけて会場入りしている。指定させた席に坐ってユンタクしていて妙な話に驚いた。

台風の日の結婚披露宴への出席率は、平素のそれよりも高いのだという。ふーん、そうなのか。意外な感想を持った。「これだけの風が吹いているのだし、ひょっとして誰一人として出席しないのでは。私一人でも出席しなくっちゃー」精神みたいなものが、実は全員の共通認識のようである。それと日常でない、つまりハレの日は大雨や嵐がつきものである。これは沖縄近代史におけるエポック現象でもあるのだ。これまで、ややもすると結婚披露宴は、そこで行われる沖縄的な披露宴芸に目を奪われがちであった。だが、沖縄における結婚披露宴の神髄は、花も嵐も踏み越えて出席する心意気であることに気づいた。

外はあいかわらず嵐が吹いているようだが、会場内は和やかな風が吹いていたなかでも、親父が嫁いでいく愛娘のために自作の歌詞で古典音楽曲を披露した。何しろこの父親の肩書が凄い。「国指定重要無形文化財組踊保持者」メモでもしなければ覚えられないくらいの、いかにもという感じの存在感があった。

心待ちし居たる

果報ことや叶て

今日のよかる日に

結ぶご縁

と、この娘なら目に入れても痛くないだろうなという感じで、祝いの旅立ちを謡いあげていた。このお父さん、きっと式の頃は台風を心配して、「風の声も止まれ、波の声も止まれ」とばかりに心の中では謡っていたはずである。

披露宴が続いていた2時間半の間、台風情報がまったくない。楽しい披露宴ですっかりとシャバのことは忘れていた。宴が終わりホテルを出ると、風が止み、雨も止んでいた。新婦お父君の「風の声も止まれ、波の声も止まれ」の効果があったのかもしれない。

沖縄全域が年初めからの少雨のために、台風襲来を持ち望んでいた節があったから一般的には歓迎された台風であった。再び元の正しい台風服に着替えてホテルの玄関口に立った。うねっ、いつのまに台風は去ったのかと錯覚をした。あれほど吹き荒れていたのだが、ピタっと止んでいる。一瞬だが自分の置かれている立場を失ってしまった。台風の目にはいったのだ。台風の目を見るのは久しぶりのことだ。この日は雲に覆われていたが、いじぇんに見たときには実際に青空がのぞいていたくらいだった。7,8年前に体験した台風の目は、自宅の孟宗竹の先っぽが完全に停止していた。日頃の無風状態でも常に微妙な揺れをしていたのだが、まるで真空状態で止まっていた。台風の目というのはそういうことである。せっかく苦労に苦労を重ねて出席した披露宴であるから、いつものとおりに二次会に出かけた猛者連もいた。この連中は、台風が去ったあとにきっと悲惨な目にあったはずである。ところで玉O淳郎クン、T屋A子さん、御結婚おめでとう。

沖縄の甲子園球児たちは、なぜ笑うのか。

 

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沖縄の甲子園球児たちは、なぜ笑うのか。

ガッツポーズのたびにジャンプがセットだった。今年の春の選抜高校野球における宜野座高校の活躍シーンでのことである。

とにかく、やたらとガッツポーズがきまっていた。このガッツポーズ、私の記憶が正しければ、メキシコオリンピックにおける水泳競技で、USA競泳陣たちが次々と右腕を振り上げての頃がはじまりではなかっただろうか。それ以来高校野球でも取り入れられたはずだ。ポテンヒットでもガッツポーズ、相手のエラーでもガッツポーズ。全国いたるところで、右こぶしがファーストフード店に向かって突き上げる時代があった。

宜野座高校のそれは、「あれよ、あれよ」の快進撃であった。ここのところ沖縄は、正直言って一勝くらいでは満足しない県民性になってきている。しかしむかし、それほど遠くない昔、沖縄の高校野球は悲壮感に満ちあれていた。それが、崔監督率いる沖縄水産高校の快進撃以来、悲壮感が躍動感に変化してきた。

沖縄水産が2年連続の決勝進出。浦添商行がベスト4、そして沖縄尚学高校はついに全国の頂点に立った。わずか2年のことである。

それにしても宜野座高校はすごかった。春の選抜大会は、各ブロックから選抜実際には優秀な成績をおさめたチームが出場することになっている。宜野座は九州大会でシ出場枠のベスト4には惜しくも届かなかったが、「21世紀枠」という不思議な制度で出場をはたした。テレビのアナウンサーは耳障りなほど、「21世紀枠、21世紀枠」を連発していた。

沖縄の甲子園球児たちは、なぜ笑うのか。-2

 

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沖縄の甲子園球児たちは、なぜ笑うのか。-2

なんだか、沖縄は特別だからねー、といわれているようでもあった。ところが、沖縄の実力は相当なものらしいとあらためて確信した次第。

なぜ、最近は沖縄のチームが強くなったのか。ここらあたりを探してみたい。昨年、月に向かって打て打て法や、左利き捕手・三塁手などで話題をさらった那覇高校野球部員の将来の就職希望は「公務員」や「職員」が多かった。一方常時プロ野球選手を輩出している関西の高校チームの職業希望は一様に「プロ野球」と紹介された。これでは、予備校的な存在である。詳しいデータが手許にあるわけではないが、沖縄は圧倒的に公立高校の出場率が高いはずである。これらあたりに一つの秘密が隠されているのかもしれない。

何が秘密化というと、ある意味では無欲で甲子園の土を踏んでいるということだ。無欲だとどうなるのか。笑うのである。とにかく笑うのである。

笑う姿に2種類ある。一つは作り笑いってやつ。緊張感を和らげるためにひたすらニコニコすること。たしかに監督がニコニコしているシーンをよくみかける。これは実際にはテレビカメラを意識している面もありそうだ。試合が終盤までもつれ込んでくると笑顔が消えて厳しい顔に戻っていったりする。おそらくはこの表情が本来の姿という感じがした。練習の時はかなり厳しいはずである。そうでないと甲子園にはなかなか出れないだろう。

那覇高校も沖縄尚学高校もそうであったが、宜野座高校はどうしてあんなに笑っていたのだろうか。地元沖縄の新聞にも、全国紙にも、そしてスポーツ新聞にも「笑顔」という文字が踊っていた。笑顔だけでベスト4まで勝ちすんでいた。考えてみたら不思議な仕草である。

沖縄には「恥かさー」と言う言葉がある。「恥ずかしがり屋」と言う意味、または「はにかみ屋」でもいいだろう。これが全国共通かどうかは知らぬが、沖縄の生徒たちは教師などから叱られたりすると、まずは笑う習慣があるのである。そういうこともあって、甲子園で失敗しても、満面の笑顔でペロッとベロをだしたりする。奥濱監督の指導は「自立」と「自律」だったと何かに書いてあった。けして「笑顔いっぱい」ではなかったが、あの笑みである。

野球に限らず、最近は指導者に恵まれているような感じがする。以前は逆に指導者不足が指摘されていた。沖縄はボクシング王国でもあるのだが、コーチたちはリングで闘っている選手に対して「クルセー、クルセー」と檄をとばしたらしいのである。これはかなり危ない言葉である。直訳すると「殺せ、殺せ」ののだ。つまり、「殴れ、殴れ」なのだ。それにしてもストレートパンチすぎる表現ではあるな。

ヒットを打ったりしたら率直に喜びを表現することは大切なことだ。大リーグで活躍する野茂やイチローの表情はイマイチわかりにくいのではないだろうか。その点、宜野座高校はわかりやすかった。

なぜ、笑うのかをもっとコーサツしてみる。これって、沖縄が甲子園ではいつでも負けていた歴史があったことも一因ではないか。一勝でもすればラッキーと思う過去であったのが、たとえ「21世紀枠」だろうが勝ち進んでいる。強くはなっているものの、勝てばラッキーという謙虚さだけが残っているのかも