重症急性シブイワタ症候群なんか怖くない。

 

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重症急性シブイワタ症候群なんか怖くない。

世の中には奇妙な病気が流行っている。SARS、いわゆる重症急性呼吸器症候群というらしいのだが、なんとも覚えにくい名称の奇病が世界中を震撼させている。先日、用事があって東京に行ったのだが、かなりの人がマスクをしていた。なに、ついに日本上陸かと思い、生きも止めて街を歩いていたのだが、それは単に花粉症対策であったらしく、少しはホッとした。

ボクは自慢ではないが、これまでの人生で二回ほど、重症急性シブイワタ症候群を患ったことがある。

一度目は中学校の時だった。その頃のボクは野球少年で、来る日も来る日も白球を追いかけ回していた。毎日が規則正しい生活を送っていたのだが、ある日突然、全力の力が抜けて、身の心もフニャフニャになっていた。症状としては激しい腹痛と下痢が続いていた。なんでも、シブイワタということだった。病院に担げ込まれてもおかしくない症状であったが、なぜかしら民間療法でもってチョコチョコと苦い薬らしきものを呑まされただけだった。食事はおかゆに梅干し、それとカチュー湯(鰹節を削って、それに味噌を加えて熱湯を注ぐ汁)だけであった。少年なりにももう少し栄耀のあるもの、つまり美味しいものを食べさせるべきではないかとの不満もあったが、オバァは「少し寝ていたら治るはずよ」と言っていた。そして、腹巻をさせられた。

それまでは病気らしい病気には無縁であった。トラホームで眼帯をしてキャッチボールをするほどだったのが、この奇妙なシブイワタにだけには勝てなかった。あっ、眼帯をしてキャッチボールのことが、片方の目だけではかなり無理があって、距離感がつかめず、結果として開いている片方の目へまともに当たってしまった。眼帯と、ミークルー(目黒)になって目が白黒になってしまい、われながらなんとも情けない顔になっていた。二度目の重症急性シブイワタ症候群はインドネシアのをの州都、デンバサールの安宿で見舞われた。そのときは、中学生のときよりもかなりひどく、鳴呼、ここで死んでいくのかと思えるほど重症中の重症であった。原因ははっきりしていた。生水を飲んだことによるものである。本来、胃腸にはかなりの自信を持っていた。ボクには親父のDNAが流れているはずだという自信と確信があった。父が子どもの頃、屋敷内のシーククワァ―サー(九年母=ヒラミレモン)の木によじ登って、そこに成っている実の全てを食べ尽くすまで、地上には一切降りてこなかったという武勇伝を耳にタコができるまで聴かされていた。

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重症急性シブイワタ症候群なんか怖くない。-2

 

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重症急性シブイワタ症候群なんか怖くない。-2

酸っぱいシークヮーサーを全て食べ尽くすわけだから、地上に生還してくると、まるで酒に酔ったような症状になるらしい。うまり、酸味で酔って足元がふらつくのである。それでも、次のターゲットの木に登ったという。なにも食べるものがない時代であり、ほっておいて小鳥に食われるよりは自分が食べてほうがいいと考えたようである。

そういうこともあってか、わが家では胃腸に関しては屈強であると信じられていたバリ島に話を戻そう。安宿で死の淵をさまよっていた日は三日間にも及んでいた。ベットと便所を一日数十回も行き来をする。ケツの穴はヒリヒリしていた。辛いにもインドネシア式の、尾てい骨あたりに水を充て洗うことには慣れていたからどうにかよかったものの、とにかく死ぬほど辛かった。

最後は便所まで歩く体力すらも奪われて、便所の前で横たわっていた。全身素っ裸で、一枚の布をかぶるだけであった。これまた実に情けない姿であった。

シブイワタ。これがどういう病気なのか。ワタとは腹のことである。シブイとは、絞るようなという意味がある。いずれも沖縄の言葉である。腹がねじれるような激痛を伴う症状で、早い話が下痢のととなのだ。赤痢は法定伝染病に指定されている急性の大腸疾患である。左下腹部に圧痛を感じ、連続的な便意を催す。便は粘着性、もしくはほとんど水状である。急性赤痢と診断されたらドキッとするのが、シブイワタに関しては普通の腹痛の、ワンランク上くらいの病気でしかなかった。周囲も「あっ、シブイワタだね。少し寝ていたら自然に治るさ」くらいなもので、本人の痛みとはかけ離れた見方しかされなくて、それほどの同情もされなかった。

バリ島でのシブイワタの話に戻る。ジャムというインドネシア独特の薬を服用したのだが、それを呑む際に、うかつにも再び水を呑んでしまった。おそらくは、いったんは沸かしてそれを冷ました水であったと思うのだが、心理的のもいよいよ腹具合はおかしくなり、七転八倒してしまった。

ジャム売りはジャワ人のおばさんが行商で売り歩いている。どうも多角経営をしているらしく、マッサージはどうかと訊いてくる。私は今にも死にそうで、マッサージどころではないのでと断るのだが、相手も商売人らしく必死に仕掛けてくる。人生最大のピンチなのに、非常に困ったおばさんであった。

今から考えると法定伝染病であるから隔離されても不思議ではなかったはずなのだが、そういうことにはならなかった。沖縄の人々には法定伝染病という認識をもっていなかったのである。

しばらくしたら治るさぁ、くらいなもので、とりたたて大騒ぎするようなものだはなかったようだ。いまだったら、ニュース扱いをされたことだろう。

大騒ぎしなかった背景には、日常的にシブイワタでバッタリゲーヤ―(七転八倒)する人が多かったということである。それでも死に至るケースはなかったらしく、例のシークヮーサー完全制圧男の父は、「ウチナーンチュは硬水で鍛えられているからシブイワタは病気のうちには入らない」と妙に自信を持って息子を慰めていた。

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きみは沖縄の田芋を食べたか。

 

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きみは、沖縄の田芋を食べたか。

 

東京の女子高校生は、ハンバーガーを頬張りながら「おいしゅうございました」と言うとか。料理評論家で、沖縄出身の岸朝子さんも真っ青である。美味しい料理の食材を文章で伝えるのは難しい。下手に書くとせっかくの品が不味くなることもあるが、私の大好物である田芋について褒めちぎってみる。田芋。沖縄では通常はターンムと呼ばれている。サトイモ科で水田でできる。サトイモの50倍くらい美味しい。芋は収穫されたのち、蒸されて我々が目にする食材となる。様々な料理方法がある。

東京にいる叔母の、土産のリクエストはいつも田芋だった。玄関先で土産を渡すや否や、叔母は、待ちきれないとばかりに袋を引きちぎるような勢いで田芋を手にする、いや、生のままで口にする。日頃は上品な叔母様で通っているのだが、その豹変に驚く。戦前から東京で暮らしている彼女にとって、田芋こそが故郷を思いださせる味だったのである。

友人に名古屋出身の高田和子さんという女性がいる。私は幾つかの本を上梓する機会に恵まれたのだが、最初のきっかけをつってくれたのが彼女だった。いま、彼女は遠くアフリカのガボンという国に結婚のために移り住んでいる。もし、彼女の結婚が家族から反対されるようだったら「うちから嫁に出す」と言ったのは、うちのカミさんだった。とにかくカミさんのお気に入りであった。

彼女と知り合ったのはある船旅で、名古屋から出発してアジア各地を回る三週間の旅だった。船は最後に那覇へ着いた。1987年のことである。彼女を含む数名が「残留孤児」みたいな形で沖縄に残った。しばらくして沖縄の大学に籍を置くようになる。そういう縁で、彼女たちが我が家に出入りするようになった。うちではなんだかんだとパーリーがあった。いつもチ中心的に仕切るのが高田和子であった。

彼女は隅々まで我が家のことを知り尽くしていた。オープナー(栓抜きのこと)ならどこ、予備のお箸はどこ、ついでに小銭の置き場はどこという具合。パーリー終了後も、一枚の食器も間違えることなく元の場所に納める能力を持っていた他の参加者を動かして仕切っていた。そういうことだけではないが、とにかく我が家から嫁に出る勢いがあった。その彼女が出産のために沖縄に戻ってきたとき、まずは食べたいというのが田芋のから揚げだった。

田芋のから揚げは、沖縄料理にあっては、傑作の一品である。揚げたての香ばしさ、サクサクした食感、なんとも言えない舌触り、いかんいかん、ついつい料理番組ふうの印象を書いてしまった。とにかく最高傑作だと思うよ。

割と簡単な料理方法なのだが、シンプルオブベストという感じで実によろしい。田芋の原型は手榴弾みたいな形なのだが、それを小指程度、あるいは5ミリくらいの輪切りにして揚げる。それにサータージョーユ―という、それはそれは独特に味付けされた秘伝のたれへサッと潜らす。それだけである。そもそもサータージョーユ―は、醤油に砂糖を溶かしたもの、本当は実に簡単な代物だ。

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きみは、沖縄の田芋を食べたか。-2

 

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きみは、沖縄の田芋を食べたか。-2

 

なんやかんや言っても私の好きな田芋料理の調理方法はから揚げなのだが「どぅるわかしー」も捨てがたい。「どぅる」とは「泥」という文字しか思い浮かばない。文字通り、見た目には泥にように見える料理である。また、これが美味しいんだな。ネーミングが土着でよろしい。いろいろな具が入っていて、なんとも不思議な味であり、目を閉じて精一杯の至福感を表しつつ食べる意外に食べ方を知らない。どうして、これほどまれに美味しい料理が、小さな小島で生まれたのか。ところがその上をいく技があった。「どぅる天」と言う。「どぅるわかしー」はもちろんのこと温かいうちに食べた方が美味い。ところが、ある料理人が冷えた「どぅるわかしー」を天ぷらにしてみた。これがすごいのなんのって。この料理、偶然から生まれた料理である。このように料理は進化するのである。

沖縄における米の自給率は2%程度だろう。十年前に3%だったから、おそらく2%くらいだと思う。とにかく水田を見かけなくなってしまった。バリ島の人々が、天井裏の倉へ山のように積まれた米を自慢したがるのは、米さえあれば豊かだということである。それからすると我々は貧しい。

司馬遼太郎が嘆くまでもなく、この国のかたちは貧しい。ひたすら農業を潰してきたからだ。沖縄では乱開発以前に基地でもって農業を破壊してきた。片手間農業のサトウキビが主力になっている。水田にこそ、本来の農業の魂が宿っているように思えるのだが、稲作は、他の農業と違って周辺との協力が必要だ。隣から水が来なければ元も子もない。水田は熟成した共同体がって初めて成り立つ。バリ島では「スバッゥ」という水利組合の鉄則がいまでもいかなる法律をも超えて力を持つ。

田芋は水田で出来る。田芋は単なる商品ではなく、新たなコミュニケーションを広げる。このことが持つ意味は大きい。

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古波蔵家の半径45メートルくらいの世界。

 

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古波蔵家の半径45メートルくらいの世界。

昨年末、あらたに世界遺産に登録されたが、那覇市内に限っていえば首里(跡)園比屋武御嶽、玉陵、それに識名園である。それぞれが割と規格の距離にあって、歩いていける距離に収まっている。我が家はその四か所の真ん中あたりである。

首里城と識名園を結ぶ道路がある。首里城は、沖縄が琉球と称していた頃のミニミニ国家の政庁であったし、国王の居住地でもあった。一方の識名園は国王の別荘であり、国外からVIPのための迎賓館としてのゲストハウスでもあった。

首里城と識名園を結ぶ道路は、いわば琉球国・国道1号線であった。この道路は石畳道路である。周囲の石垣囲いの石積みとマッチして、なかなかの風情をかもしだしている。国道1号線すべてが石畳というわけではなく、現存するのは全工程の三分に一程度だろうか。残りはアスファルトに埋もれてしまっている。しかし、敷き詰められたアスファルトを引き剥がすと、おそらくは現在でも立派な石畳が眠っているはずである。

個人的な話になるが、ボクの家の住所は那覇市首里金城町でつまり金城町石畳のすぐ近くである。うちの娘たちは、学校をさぼっている以外は毎日のように様道を登って小学校に通っていた。中学校は逆に坂を下ってさぼる以外は毎日のように登校していた(末娘は、いつまでも毎日のように下っている)。ところで、沖縄は上り坂と下り坂はどちらが多いと思いますか?答。完璧に同じ。

どうでもいいような古典的な「なぞなど」であった。

石畳は元々から観光スポットであったが、最近ではかなりの方々が訪れるようになっている。それもほとんどが地元客。これにはワケがある。NHKの朝ドラ{ちゅらさん」の古波蔵家が石畳道に面している設定になっているからからだ。平良トミおばぁ、堺マチャアキ恵文、田中スーチャンママ、ゴーヤーマンことニーニーなどの一家が構えていることになる。

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古波蔵家の半径45メートルくらいの世界。-2

 

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古波蔵家の半径45メートルくらいの世界。-2

他所からの観光は気付かないようだが、地元の人々の間では隠れた観光スポットになりつつある。ボクが古波蔵家の前を通るたびに「あっ、ここだ、ここだ」とばかりに記念撮影してる人がいる。たいていは中年の仲良しおばさんグループというという感じでやってくる。なかには、「ちょっと覗いてみようかねー」など、好奇心旺盛なウチナーンチュが多い。まるで平良トミおばぁが内にも外にもいるようだ。

ゴーヤーマンニーニーは、実際に石畳を下ったところに位置する中学校を卒業している。漫才の「ガレッジセール」としてデビューし、人気がまだまだの頃は「よく中学校に遊びに来ていた」と、そこの中学校の卒業生(うちの娘のこと)が言っていた。当時から個性的な人物であったらしい。

石畳道は、距離にして約三百メートルで、周辺は湧き水の宝庫でもある。有名な樋川も多い。澄んだ水が多く流れているということは、蛍も多いということである。飛んで光を放っているのはクロイワボタルという種である。毎年、梅雨に入って、しばらくの時期は蛍が幻想的に舞っている。古波蔵家周辺でも乱舞いしている。

蛍は石畳道周辺を自由気儘に行き来している。石畳道には、実は車両通行止めの標識がなく、実際に車が自由気ままに行き来している。ただし、一部だけは階段状になっていて、そこだけはどうにもならない。ところが、琉球有史来、一台だけ突破した車がいた。工事のために階段のすぐ上まで作業出来ていたトラックが、いざ戻ろうとした階段でスリップしてどうにもならない状態になった。ドライバーは焦っていたが、いよいよ事態は悪化するばかりであった。蟻地獄みたいなもので、もがけばもがくほどトラックはずり落ちていくばかりだ。しばらくして、重みに耐えかねてロープが切れ、車は階段を意思に反して駆け下りていた。結果的にせよ、石畳、それも階段を無謀にも走破した車は後にも先にもこの一台だけであったはずだ不名誉な記録である。歴史の積み重ねにも耐えて、というと聞こえがいいが、歴史がある分だけ石の表面はツルツルに滑るやすくなっている。観光客がこけている姿を何度か目撃したことがある。特にカメラを持っている人が危ない。名勝だけに記念に一枚という感じで、ポーズをとる人、写す人がいる。長方形のアングルに人物も石畳道も赤瓦屋根すべて納めるために、ファインダーに目を当てながら前後に移動する。そういう時に事件は起こる。若いお嬢さんが、あられもない格好でこけたりする。

滑り対策が必要である。以前だと、石に二筋ほど切れ目を入れていたらしいのだが風化してしまっている。ボクに家に遊びに来ていた友人が言っていた。「石畳はあくまでも畳であるから、ときどきは表替えをする必要があるのでは」と。

話を「ちゅらさん」に戻すが、ヒロインの古波蔵恵理は家で状態で東京に出るのだが、うちにも家出娘がいる。昔から家出を繰り返していた上の娘は、中学生の頃、「探さないでください」との置手紙を残して消えていった。後で聞いたら、サムソナイトを、それも二つ持って石畳道から引きずったという。行き先は、やはり東京であった。

ところで、古波蔵恵理の恵理だが、沖縄ではけっして「エリー」とは言わない。あくまでも「エーリー」である。これって、きっと、演出者がサザンオールスターズの「いとしのエリー」を意識しているはずよ。

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沖縄音楽の裏面と表面。

 

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沖縄音楽の裏面と表面。

沖縄通の親しい友人がいる。氏名は訳あって表に出せないが、通称ミック・ジャガーということになっている。ローリング・ストーンズのミック・ジャガーのパロディーなのだが、とりあえずは公務員係のロッケンローラーである。なにしろ、オールディーズ系の有名バンドのオーディションを受けたくらいである。幸か不幸かオファーがなくてアファーになったが、気を取り直して公務員を続けている人物である。歌唱力は自他ともに認めるところであるが、欠点はミック・ジャガーみたいに顔が濃くない点にあったと思う。それと幾分かはセクシーさにかけていたのかもしれない。彼が結婚をするというので、披露宴をやりたがらない彼のために強引に披露宴を挙行したことがある。彼に合わせてライブハウスで行うことにした。あのモンパチも活躍していたライブハウスである。派手目がいいだろうということで、国際通りに面した入り口付近に、パチンコ屋新装開店の時に見られる派手な花輪を10本並べておいた。

私が原稿を書く場合に、彼は欠かせぬ存在であり、特に音楽関係となると凄ざましいばかりに力を発揮してくれる。昔の曲名が思い出せないなどと電話をいれると、即座に回答が返ってくる。一発選曲ならぬ一発回答男である。そのミック・ジャガーに例の如く電話をいれた。「ジャガーレコードで一番に売れた曲はなんねぇ?」「およげタイヤキくん」ですね「次売れたのは?」「ピンカラトリオの「女の道」です「女の道」はA面だが、B面の曲を教えてほしいのだけど」ちょっと待ってください、調べてみますので10分くらい時間下さい、と言う。計ったかのように、10分後に談話がきた。

「わかりました、「沖縄のひと」です。約326万枚売れていますね」

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沖縄音楽の裏面と表面。-2

 

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沖縄音楽の裏面と表面。-2

ほんとうに訊きたかったのは、「沖縄のひと」の存在であった。ここでレコードについてCD世代やDVD世代のために簡単な説明をする。レコードはA面とB面があり、裏表にレコード針用の溝があって音が出る仕組みになっている。一応はA面がメインとなって発売されるのだが、実に面白いことにA面が売れるとB面も同時に売れることになる。当たり前の話だが、発売枚数は奇跡的に同じ枚数となる。

「沖縄のひと」は326万枚も売れたのである。浜崎あゆみもGLAYも、宇多田ヒカルも安室奈美恵も真っ青な数字である。統治で言うならば、全国の家庭の十所帯で聴かれていたことになるのでは。だが、不思議なことに肝心の「沖縄のひと」を覚えている人がいないのである。実は私も知らないし、おそらく沖縄の人間でもほとんどの人がその存在すら知らないと思われる。幻の「大ヒット」曲ということだ。このA面とB面の関係だが、これは沖縄レコード業界にもあった。手許に数字があるわけでもないが、メイドイン沖縄のレコードで一番のヒット曲はフォーシスターズの「丘の一本松」と大工哲弘の「山崎ぬアブジャーマ」であろう。「丘の一本松」は沖縄芝居のタイトルそのままの曲で芝居同様に大ヒットした。沖縄における高校生たちの文化祭では定番の芝居である。

「山崎ぬアブジャーマ」というのは八重山を代表する民謡で、歌詞の内容は、かなりスケベ―的である。アブジャーマというおじいがいたのだが、このおじいには二人の愛人がいた。周囲からしたら、それではあまりにも不道徳すぎるということで、一人は本妻に、一人は妾にしたという、なんとも羨ましいような決着を図ったことが謡われている。

少し話題をそらすが、この絶倫おじいのことを謡った。「山崎ぬアブジャーマ」だが、私の職場の隣にある開南小学校の運動会では、行進曲としてこの曲が流されていた。教師たちは知ってか知らずか、私のほうが赤面していた。

この「山崎ぬアブジャーマ」はいわゆるB面であった。ということは「丘の一本松」がA面ということになる。A面とB面の関係は複雑である。「山崎ぬアブジャーマ」ではないが、いったい誰が本妻で、誰が妾なのか、あるいは誰が(A)で、誰が(B)なのか、なかなか判断が難しい。

本来だと同じ歌い手がA面とB面で構成しそうなものだが、ここがかつての沖縄音楽界の不思議な部分であった。適当、という言葉はどうかと思うが、しかしテーゲーとしか思えないような組み合わせでもってA面とB面が決まっていたように思う歌い手たちの意思などまったく無視するかのようにレコードが出来上がっていた。

最近では気軽にCDが出せる時代になったが、レコード時代は、それこそ面倒な手順を踏んでの制作だったという。インディーズなどという言葉すらもない時代であった。そういうなかで、無謀にもレコードを、それもシングルではなくLP版を出した友人がいた。和宇慶文雄である。彼は「歌手」という肩書を手に入れた。その彼が渾身の力をいれて製作したLPだが、期待したほどには売れなかった。これは風の噂なのだが、彼の故郷である泡瀬海岸で沖に向かってレコードを投げて遊んでいたという風聞が那覇まで届いた。可哀想に、よっぽど売れなくて、処分に困ったのかレコードを海に投げる気持ちはいかばかり。後日談だが、「んじ、レコード投ぎたんでぃな」(レコード投げ遊びしたって?)」と私が訊いたところ、やはり、「歌手」というプライドがあったのだろうか、問いには答えず、「レコードでぃーしや、ゆー飛ぶんどー(レコードって奴は、実によくとぶものだ)」と言っていた。

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社長は、もっと真面目に泡盛をつくれーっ!

 

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社長は、もっと真面目に泡盛をつくれーっ!

酒はよく飲む。まずは生ビールを一杯か二杯飲んで喉を潤す。

ではという感じで泡盛に移る。暑かろうが寒かろうが断固として湯割りなどしない。やはり氷との相性がいい。最近はウッチンで割ったりもするが、それでも氷は必需品である。それにしてもウッチンは身体にいいということで、需要が相当に伸びているという。でも、不思議な話だ。ウッチンとセットで酒を飲んで健康になろうという不逞な輩が周囲には多い。まっ、いいか、という感じでもないが。

那覇の人間であるから、基本的には那覇で造られた酒を飲む。ここらあたりはかなりのこだわりがある。酒造所の税金は那覇市に落ちるのだから、ここは断固として譲れない。

ある飲み屋で、某酒造所の社長と知り合いになった。止まり木で肩を並べている内に、なんやかんやとユンタクをしていた。「そうか、君も、ミヤジャトか」ということで何となく意気投合していた。酒を飲んだら、原則的には意気投合するようにしている。

話を戻す。同じミヤジャトさんだが、「君は垣花か」と訊いてくる。那覇近郊でミヤジャトだと、たいていは垣花出身ということになる。「いいえ、与儀です」と応えたのだが、どうしてミヤジャトだのに垣花ではないのだ、とばかりになんとなく納得していない様子。

これと似たようなことを思い出した。本の編集のことでだったと思うが、ボードーインクの新垣博一さんと飲んでいるときの話。その場所も、ミーグルーになった同じ居酒屋だった。二人で打ち合わせと称して飲んでいたのだが、ある人が我々の席に乱入してきた。これも同僚なのだが、ただしこの人は女性であった。

随分と酒が入っている様子であった。

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社長は、もっと真面目に泡盛をつくれーっ!-2

 

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社長は、もっと真面目に泡盛をつくれーっ!-2

「ウィ、あなたが新垣博一さんなのご活躍ですね、ウィ」という雰囲気だったさらに言葉を続けて「ウィ、貴方はどうして八重ヤな出身なのにシンガキなの。普通、八重山ではニイガキでしょう、ウィ」と畳み掛けてくる。さて、困ったのはニイガキさん、おお、ロミオよロミオ、あなたはどうしてジュリエットなの状態であった。ニイガキさんはそもそも八重山の出身ではなく、座間味島のニイガキである。ウィウィと訳の分からないフランス語みたいに迫ってくる女性に口を少し尖らせて、「こっちの勝手でしょ」という感じになっていた。

止まり木友達の社長は豪快な方である。口は極めて悪く、いつでもバカタレを乱発する。こちらも手慣れたもので、私は影の営業部長で、よく行く飲み屋に社長のところの銘柄を置かして貰ったりしている。ただ、知り合いだからではなくて実際に美味しい酒であり、沖縄以外からの評判はかなりなものである。

ところが、最近になってこの酒を見かけることが少なくなった。あまりのも評判が良くて、ほとんどが本土向けに出荷されているためである。「それはないじぇ社長」と、携帯に電話を入れたのだが、社長はいつもと違って大きな身体を縮じめるようにして8携帯から相手の姿は見えないが、おそらくはそうであったはずだ)、蚊の泣くような声で、「ごめんなさい」をしていた。

最近になって、ついにいつもの飲み屋で久々に逢った。酒はどうなっているのですか!と言う前に先制の返事が返ってきた。大きな身体を折り曲げるようにして「ゴメン、ゴメン」を繰り返した。この関係、いつも原稿が遅れるミヤジャト重と編集者との関係に似ているものだから、社長の気持ちもわからないわけでもない。しかし、ここで甘えかしてはいけない。根をあげているのはボクだけではないのだ。この銘柄を愛している店の人たちとあることを考えている。デモをしてシュプレヒコールで声を挙げる。それも交際通りで。「社長は真面目に酒を造れー!」とか、「泡盛ファンを不安にするなー!」などと道行人に訴えようと思っている。ただデモだけでは面白くないから、フォークギター持って、頭にはバンダナでもキリリと締めて、馬鹿でかい声でがなりたてるようにして、歌ってけばいよいよ効果があるかも知れない。「俺たちは社長の酒が好きだー、社長の造る酒は最高だー」などと、つまり誉め殺し作戦である。きっと、道行ウチナーンチュや観光客は引いてしまうに違いない。これこそが作戦であり、社長はついに堪えきれなくなって、「バカッタレ、造ればいいんだろう」と言うはずである。それほどまでに好きな銘柄が飲めないということは辛いのである。ところで、いつもの店での久々の再開であったが、社長は自分の銘柄の泡盛ではなくて他社の酒を飲んでいた。

社長も辛いのね。

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