行き行きて大阪、冬の陣・夏の陣。-2

 

うちなー的沖縄

行き行きて大阪、冬の陣・夏の陣。-2
彼、息子ではなく父親は沖縄の古典音楽に長けている。明笛(横笛)は元々から得意としていたし、最近ではもっぱら三線に凝っている。古典音楽コンクールでは、笛の部ではすでに最高賞まで受賞していた。三線に関しても新人賞を皮切りに優秀賞までは貰っていて、最後の仕上げとしての最高賞にチャレンジする日々であった。ところが息子がとんでもないことをしでかして、いよいよ落ち着かない日々を送ることになった。そして大阪夏の陣を体験した。ここでも一勝をしてしまった。
 随分と過去の話になるが、彼が大阪に出張ということになった。真冬の寒い時期であった。生まれて初めてのヤマトだという。出張だということで信仰な表情で私に相談をしてきた。
「せんりー(彼は私のことをそのように呼ぶ)、セーター持っちょーみ、持っちょーらー貸し入れー(セーターを持っているか、持っていたら貸してくれ)」
 上から羽織るHBTは持っているからと言う。HBTとは、米軍の戦闘用の服装で、見た目を気にしなければ防寒服には適している。一時代は、沖縄の人間がこぞって着ていた(とは言っても男性主体ではあったが)。「復帰」の頃から急激に見かけなくなっていたが、それでもこれさえあれば、意外と風があって冷える沖縄の短い冬は過ごせた。ポケットも多くあり、カバン代わりにもなった。学生たちには人気があり、夏でも風邪と向き合う漁民などには重宝がられていたはずである。
 かつて沖縄には全軍労という米軍基地内に働く人々で結成した組合があった。現在は全国的な組織の全駐労になっているご、その全軍労がすこぶる強かった。ベトナム戦争にも影響が出るほど基地の機能をマヒさせるストライキもやったりしていた。ちなみに、彼らがストの時に着ているのがHBTであった。ゲートで対峙する武装した米兵たちは複雑な思いでHBTで身を包んだ全軍労を見ていたことであろう。
 大阪のでの用件は公務出張で、ある人物に会うことになった。そして慣れない大阪の喫茶店で待ち合わせて会った。そこには付き添いで地域の議員氏もいた。議員氏はしばらくして席を立った。その後の話を総合してみると、席を外して那覇の彼の職場に確認の電話をしたようなのだ。「彼は本当に職員なのか」というという問い合わせであったという。
 たしかにHBTは疑われる服装だったのだろう。それに、口髭と短く刈り込んだ頭は「や」の字のつく職業に思われたのかもしれない。見た目だけで判断されたのである。
 冒頭で「力持ちで優しい」と書いた。ちょっとだけでも話をすればわかることなのだが、外見だけで決めつけられて、「や」にされてしまったのである。