モノレールに乗って南米に行ってきます。

 

うちなー的沖縄
モノレールに乗って南米に行ってきます。
8月11日の沖縄県内紙には、「沖縄都市モノレール開業」という大見出しが踊った。計画立案から30年の実現であった。それまでの大量輸送交通機関といえばバスだけだったのが、それがモノレールが加わることによって、大きな節目を迎えたことになる。車社会である沖縄では慢性的な交通渋滞ということもあって、バスの時刻表は有名無実化し、いつ来るかわからないバスに苛立ったり、あるいは時刻表よりも早く発車して去っていくバスに罵声を浴びせたりと、なかなか辛い面も多く見られた。大手四社のバス会社があるのだが、なかには放漫経営や一部経営者だけが利益をむさぼったりということに加えて、過当競走もみられ乗客本位ではなかったように思える。こういうなかでのモノレールである。人は 新しいものに目がいくのは当然のことで、バス会社も真剣に会社運営をしなければ、たちまちにして見捨てられていく運命にある、と、いうことで今回はかなり辛口でスタートするのだか、ここらあたりでギアチェンジをしよう。モノレールに話を戻す。なにしろ初めてである。羽田空港から浜松町までのモノレールは乗ったことがあっても、やたらと郷土愛の強い沖縄にあるからして、たちまちにしてアイドルになる要素はかなりあるとみた。自分の住む街を高いところから眺めるわけだから、いよいよ興奮もしてくる。開業当時は、夏休みということもあって家族連れと通勤者が同じ車両に乗り込んでいたり。家族連れであるから、おじぃ・おばぁも当然ながら乗っている。おじぃもおばぁも「はっさ、はっさ。走っている、走っている」と校風の面もちで車窓から目を凝らす。やはり、という感じでエピソードが飛び込んできた。バス感覚で、「次降ります」のための社内ブサーを探している人、あるいは実際に手で壁をまさぐっていたなどなど。バスと違ってステップがないバリアフリーなのだか、乗り込むタイミングがうまくつかめないおばぁなども。果たして右足からなのか、それとも左足から一歩を踏み出すのか。究極の混乱は自動改札口であった。なにしろこれも初めて出現した代物である。知っている人からすれば当たり前の話なのだが、まずは切符発売機に並んで行き先に応じて料金を入れて買うのだが、これを勝手に省略するものあり。いきなり自動改札口にコインを入れて機械を止めた人もいたらしいのである。

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モノレールに乗って南米に行ってきますー2

 

ういなー的沖縄

モノレールに乗って南米に行ってきますー2

切符発売機の前に並ぶといえば、普通は並んでいる間にあらかじめ金を用意するのだろうか、沖縄は違った。まずは慣れない並ばない文化をかなぐり捨てて並ぶ。そして自分の番が来た段階で、料金を確認してそれから財布を出しておもむろに金を準備するという、極めてゆったりとした動作をする者あり。ふふふ、とついつい笑ってしまう。おじぃ、ゆっくりでいいからね、声を掛けてしまいそうになったくらいだ。ところで私は那覇の首里に住んでいるのだが、モノレールの終点が首里である。ということは通勤の足として利用できる環境にある。職場のある地点まで往復可能であり定期券を買うことにした。学生時代はともかくとして就職してからは初めての出来事ということになったりなんだか気恥ずかしいような気がしないでもないが、それはそれで新鮮な気持ちにしてくれる。ところで定期券の使い方だが、私はいつかの号に書いたことがあるのだが、まっすぐ自宅には帰らない、あるいは帰れない症候群を患っている。職場の近くで飲み、それから桜坂、栄町という具合に飲む習慣を持っている。悪く言えば単なる飲んべえ、よく言えば原稿書きのための研究熱心ということになる。この桜坂と栄町が絶妙な場所である。桜坂でよく行く飲み屋の「小桜」は牧志駅近く、栄町の「ボトルネック」や「生活の柄」や「SUDAKA」は安里駅のすぐ近くである。仕事を終えて帰り道だが、モノレールによって明らかに帰り方が変わってきたのである。そのことを上司に話していたら、「君のためのモノレールだな」ということになって、少しだけ恐縮したものだ。そういう沖縄のモノレールだが、当初は開業が沖縄的に相当遅れるだろうという声もあった。沖縄の人間ではないライターの人が、「一体いつになったら走るのか。那覇に来るたびに進まない工事」というような記事をみたことがある。それは面白おかしくかいてあったのだが、どうもおきなわがわからすると首を約5度ほど斜めに傾けてしまった。ところが彼の期待に背くかのように開業は四ヶ月も早くなつまてしまったのである。書いた人は、しまったと思ったかもね。とはいうものの、経営に関しては必ずしも楽観視できない状況にある。赤字ともなれば、すぐに沖縄県と那覇市に負担がかかるとこになっているりそういうこともあって、せっせと乗ろうかなと考えているわけだ。絶対人口が少ないだけに厳しい一面があることも真実であるりしかし、とここで机の一つや二つくらい叩いて強調することがある。沖縄には国鉄がなかったりそしてJRもなかった。そこで真面目にかんがえるのだが、日本という国の元気のなさの大きな要因に年金問題というのがあると思う。少子化高齢化時代にあって、若い世代の不満はいよいよ強まるばかりである。どうして自分たちだけが増え続ける年金受給者を支えるのだ、と。そのネックになっているのが国鉄だったのでは。国鉄の赤字は旧満州鉄道職員の年金を抱えたことにある。それが尾を引いて今がある。よく、日本政府は沖縄を甘やかしているなどという言動を耳にする。しかし、違うのだ。全国津々浦々に鉄道網を敷いたなかで、沖縄は例外だったのだ。それどころか国鉄の赤字は恩恵に負担をしているという現実もあるのははなくても同じようある。では、これからモノレールに乗って南米へ豆腐(食べに行って来ます(ホント)。

南米うるま園のパラダイス。

 

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南米うるま園のパラダイス。

「南米で豆腐を食べてきます」宣言をしたのが、実際に南米に行ってきた。アメリカ経由でブラジルのサンパウロを経て、アルゼンチンのブエノスアイレスへの飛行は人間の限界を超える長旅であった。南米で食べた豆腐は沖縄の硬いシマ豆腐だったのだが、その話はいずれ書くことにして、垣間見ていたアルゼンチンの沖縄社会について。
それにしても地球というサイズが現在の規模だからいいものの、これが二倍とかだと、きっと南米行きを諦めたに違いない。
アルゼンチンには、およそ二万七千人くらいの日系人が暮らしている。そのうち約一万五千人が沖縄系というから、その数たるや圧倒的である。とは言ってみたものの97%が白人系であり、残りも白人とインディオとの混血が占めていて、日系人を含めてのその他の人種構成比率はほんのわずかということになる。その、ほんのわずかなその他では韓国系が多くを占めている。
日系社会の形成は、95年前の「笠戸丸」による移民が皮切りだったのだが、韓国系はここ30年ほどで一気に増えて、いまでは10万人に達しているという。加えて中国系も増えているというから、日系人は圧倒的に少数派中の少数ということになる。
そういうと何となく沖縄系も沈んでいるかのような印象に受け止められるかも知れないが、決してそうでもない。日系人会館よりも大きな規模を誇っているのが沖縄会館だし、一番に多くの移民を輩出した中城村出身者などは同規模の開館を独自に所有し、その中城村の一集落である久場は、やはり独自の会館を持っていて盛んに活動を続けている。会館を利用しての空手指導なども行われていて、広く活用されている印象を持った。もちろんのこと、センセイは沖縄出身者があたっていた。
アルゼンチンの空手界では、「センパイ」あるいは「コウハイ」などという言葉が生きていた。空手関係者とは随分と会う機会があったのだが、センセイの弟子たちからは、「センセイのコウハイですか」などと質問されたりした。確かに後輩ではあるが、「そうだ」と言うと大変な誤解を与えそうで曖昧にしていた。
ブエノスアイレスの近郊に、「うるま園」という沖縄県人たちのオアシスがある。
いわば県人会館直営の福利厚生施設である。そこへ二日間続けて足を運んでみた。
サッカー場でいえば、おそらくは6面か8面くらいがとれる広さである。実際にそこでは若い世代はサッカーに興じていた。一方ではゲートボールが盛んにおこなわれていた。
ブエノスアイレスやその近郊で暮らす沖縄系の人々が毎週のように集まってくるとのこと。わたしはサッカーをやるわけでもないし、ましてやゲートボールという年齢でもない。そうなると居場所がないのだが、実は違った。あるのである、中年向けの居場所が。広大のうるま園の中央にアサードというアルゼンチン式焼き肉を焼く設備があって、サッカー場とゲートボール場を分けるかのように設置されていた
アサードはアルゼンチンならではの豪快な焼き肉で、バーベキューの一種である。とにかくサイズがジャンボで、二切れくらいで満腹状態になる。それは朝早くから準備してお昼に備えている。

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南米うるま園のパラダイスー2

 

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南米うるま園のパラダイスー2

食べ物はさておき、ここでもっとも楽しかったのは会話である。私とほとんど同じ歳くらいの人たちだったのだが、とにかく面白い。このうるま園に来るときは家族単位なのだが、しばらくすると集団がばらけて、いろいろな人との交流が開始される。アサードだけでなく、そこには必ずやワインが介在している。とにかくワイン好きな人々である。沖縄だったらオリオンビールか泡盛ってことだが、ここではとにもかくにもワイン。最初は出身地ごとに集まっていたのだが、しばらくすると三々五々バラバラになってくる。
うるま園では、きちんと遊びの役割分担があるようだ。サッカー、ゲートボール、それにアサード&ワイン組である。それは一世世代と二世、三世世代、それにその中間派との区分と言う感じがした。二世、三世たちは当然のようにスペイン語を話す。親たちもちろんのことスペイン語をなのだが、同世代が一世だと、子どもたちも片言ながらウチナーグチが飛び出してくる。
驚いたことに「ヒティミティムン」であるとか「アサバン」という単語が次々と飛び交っている。おそらくは沖縄でもある一定以下の年齢では消えかかっているような気がする。朝ご飯、昼ご飯という意味なのだが、それをスペイン語と同じような感覚で語りかけてくる。
今回の旅行先は、アルゼンチン、ブラジル、パラグァイだったのだが、スペイン語もブラジル語もさっぱりだったのだが、こういう地域ではウチナーグチを操る人々はそれぞれの出身地の訛りを残している。その子供たちも同じように訛りを残しているのである。アサードはいろいろな組み合わせを可能にする。「ドウコウカイ」という単語をたびたび耳にしたが、それは「同好会」ではなく、「同航会」のことであった。同じ船に乗って移民をしてきた仲間ということで、そうなると同じ地域出身者ということにはならない。ワインを片手に、「あっちゃー(歩く)・あっちゃー(歩く)」をする中年オジサン(ときとしてオバサンも)たちが増えてくる。ようするに毎週のように集まっているから、全てが顔見知りなのである。同じ船で渡ってきた人、同じ地域出身の人、友達の友達は友達という雰囲気がうるま園中に広まっている。
これって、沖縄で言うところの、「いちゃりば・ちょうでいー」そのものである。
沖縄の諺で、はじめて出会う人でも兄弟みたいなものだ、という意味である。
そういう精神が当たり前のように目の前で繰り広げたれている。ひょっとして、沖縄では失われつつある光景かも知れない。

金武で五千食分の沖縄そばを見た。

 

うちなー的沖縄

金武で五千食分の沖縄そばを見た。
さえわたる秋空の下、ここの花の東京は国立代々木競技場における世紀の祭典、東京オリンピックがいままさに華々しく開催されようとしております。第二次世界大戦の廃墟から不死鳥の如く蘇ったニッポン、戦後の闇市時代には国民が肩を寄せ合いながら雨露をしのいだニッポン、奇跡的な経済復興を成し遂げてきたニッポン、嗚呼、ニッポン・チャチャチャ。こんにちは、こんにちは、世界の国から。失礼致しました、この歌は6年後の大阪万博のテーマ曲でした。なにしろ世紀の祭典であり、私ども放送陣の声も上ずり気味でございますが、気を取り直して実況中継を続けてまいります。アー、アー、ただいまマイクのテスト中、本日は晴天なり。いずれにいたしましても、オリンピックの顔の顔、ソレ、トント、トトント。顔と顔の世界中の人々が四年たったら また会いましょうの硬い約束のもと、各国選手団がいま続々と入場行進を続けております。いずれの役員選手団も色鮮やかな民族衣装に身をまとい、にこやかに、まるで三波春夫の笑顔でスタンドの大観衆に手を振りながらの行進が続いています。そして、いよいよニッポン大選手団、一糸乱れぬ入場行進が続いております。
 あれから37年、時代は大きくパーンして那覇の国際通り。
 第3回世界世界のウチナーンチュ大会の前夜祭が国際通りで繰り広げられた。まるでオリンピックの雰囲気で、各国旗を掲げてのパレードがあった。沖縄は貧しかったがゆえに移民県である。「手紙はいいから、まずは金から送れよ」と励まされ、いざ我らが目指すは五大州という掛け声でウチナーンチュは世界各地に渡海していった。移民先での生活はけっして平坦な道ではなく、逆に苦悩の連続であったはずだ。その人々が五年に一度、世界中から沖縄に集う。三世、四世、中には五世も含まれる。永い間、異郷の地で暮らしていても断固としてウチナーぢらーを堅持している人も多いが、日は昇り日は沈み、血は混ざり血は巡り、顔はインターナショナルになっている。しかし、DNAは沖縄そのものだ。

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金武で五千食分の沖縄そばを見た。-2

 

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金武で五千食分の沖縄そばを見た。-2
沖縄の中で、ハワイを中心にもっとも高い比率で移民を送り出した地域が金武町である。その分だけ、移民交流事業も盛んだ。数年前、吉田勝廣金武町長は、次代を担う町内の中学生をこぞってハワイに送り込んだことがあった。外航船一隻を丸々借り切っての一大事業であった。ボクは、この事業に浅からず関わっていた。「吉田さん、子どもたちを船に乗せて追体験学習をやりましょうよ」とさりげなく誘ってみた。普通、行政は、「検討します」と答えてうやむやにするものだが、吉田さんは本当に検討をして、結果として実行に移した。その縁もあってか、金武町の成人式の講師として呼ばれたユンタクをさせられたり、職員研修などに招聘されたこともある。
 その金武町で「大綱引き」があったので出かけた。あまりにも白くて、とてもじゃないが一回の原稿には収まらないほどの内容があった。とにかく区民総会参加というのがよかった。金武区と隣の並里区が競う綱引きなのだが、なにしろ金武区だけでも五千食もの沖縄そばが用意されていた。おにぎりにいたっては一万個という数である。一個ずつを積み上げると、きっと恩納なべさんが詠んだ琉歌の「恩納岳あがた 里が生まれジマ 森も押し除けて 此方なさな」で有名な金武の背骨である恩納岳の高さを超えるに違いない。沖縄そばにいたっては、おそらく瞬時にさばいた最高記録だったに違いない。それがことごとく無料である。ややもすると無料にありがちな無味乾燥の味ではなく、なんとも美味しかった。此厚(これくらいの厚さ)の三枚肉が三枚。出汁は濃ゆからず薄からずの、つまりとっても上等な味であった。臨時の台所となった金武町民会館は、建物いっぱいに婦人会が陣取っての作業が続いていた。そば出汁の湯気と婦人会員が醸し出す熱気の湯気で立ち込めていた。綱引き会場は国際色豊かであった。緊迫するアフガニスタンじょうせいの影響で金武のキャンプ・ハンセンの兵士たちの姿はほとんど見かけなかったが、キャンプ真向かいの新開地からはフィリピンの女性たちが大勢で駆けつけていた。実に金武らしい光景であった。もちろん多くの金武町出身の世界のウチナーンチュたちも陣取っていた。移民の町金武らしい四文字熟語が小旗に表示されていた。海外雄飛。進取気象。四海兄弟。世界平和。自助自立などなどである。中には、合格祈願、交通安全、子孫繁栄などというのもあった。
 丸一日かけて立派な大綱が編まれ、男衆たちが担いで会場へと向かう。それを女たちが見守る。昔だったら、ここで恋愛感情の一つや二つは生まれたことだろう。それほどかっこいい姿だ。綱引きのひとつのクライマックスがサールと称される役割である。それぞれの網の上に三人の武者が乗る。これは随分と名誉なことで、サールに決定すると一族挙げての祝いも行われる。ボクも祝いの場に寄せてもらった。
 金武区からは仲間尚輝君が選ばれていた。あの甲子園を湧かせたアレヨアレヨの宜野座高校野球部員である。一塁コーチャーでチャンスのとき、スタンドの「ハイサイおじさん」に合わせて踊ってしまい高野連からきつかお灸を据えられた仲間君であった。さすがに、網の上ではカチャーシーは踊っていなかったが、優雅に弓をかざして踊っていた。なんだか凄いものを見てしまったという気持ちだった。

報告します!本日も交通事故はゼロであります。

 

うちなー的沖縄

報告します!本日も交通事故はゼロであります。
警察の不祥事が続いている。最近の新聞には、何やら「隠秘」「隠蔽」「隠滅」などの字が踊っている。どうも「隠」がキーワードのようである。を
 実はボクが見聞きした警察官による「大不祥事」事件があった。具体的に記述するとバレてしまういそうなので、今回の「うちなー的沖縄」に限り、モザイクの部分を●★▲■などで表現するが、読者の皆さんはプライバシー保護の観点からくれぐれも擦ったりしないようにしてもらいたい。
 事件は、●★年前、県内の▲■島で起こった。
 ボクは一人で▲■島を旅行していた。そこで一人の単身赴任の駐在さんと知り合った。いつも一人で淋しくて、酒飲み相手を探しているのだという。それはそちらも暇を持て余しているので相手をすることにした。顔はあくまでもいかつく、怖そうではあるがなかなか話は面白い。普段だと絶対に聴くことのできない話が次から次に、まるで母の日か何かのかきいれどきの中華料理屋みたいに次々と笑えるメニューがテーブルに運ばれる。
「どうして自分が▲■島に飛ばされているかといえば、暴れているアメリカ兵を投げ飛ばして大怪我をさせたから」
「ふーん、投げ飛ばしただけですか。本当は殴ったんじゃないの」
「まぁまぁ、話はそれくらいで、ところで宮里さん、この▲■島では一年間に何件の交通事故があったと思いますか?」
「うーん、そーねー。4、5件くらいかな」
「ふふふ、とんでもない」
「じゃ、10件くらい」
「ブーッ!ゼロ、ゼロ、ゼロ件ですよ」
「ふーん、そうなの。島ではやっぱり事故ってないんだね」
「いや、本当は事故が、それも相当に大きな事故が一件あった。でもゼロ、不思議でしょう」
 本当に不思議な会話である。誰にも言わないでよ。ちょっとちょっと、誰にも言わないでよというのは、沖縄では少しは誰かに、あるいはある程度はみんなに言ってもいいよ、ということに置き換えられるのでは。イヤ、これは本当に秘密の話だから誰にも言わないでよ。相当に酔いが回ってきている。駐在さんは絶対に秘密だという。それなら言わなければいいのに、どうしても聴いてもらいたい様子。なんだから聴かないとこの夜は終わらないように思えた。わかった、わかった。絶対に誰にも言わないから。そう言いつつ、冷静な宮里千里刑事は、真綿で首を締めるようにして、徐々に犯人を自白へと追い込むのだった。
 誰にも言わないでよのエンドレスが続いて、彼はとんでもないことを自白した。
「一件の事故は、自分が起こした。酔っ払っていたものだから、ブロック塀にぶつかってしまってよー、がはは」
 何と唯一の事故とは、警察官が引き起こしたものであった。それも酔っぱらって。これって、まずいんじゃないですか。ボクは警察機構に喝を入れるようにして、ドローンと酔った目で弱々しくもにらみつけた。ここで警察機構の支部のその端っこに属する▲★警察官は、沖縄の人らしく必殺の言い訳をした。
「だからよー」
この「だからよー」は椎名誠あたりがするどく分析をしているように、沖縄独特の非を認めつつ、しかしながら責任からするっと抜けるような効用語である。これで総てが終わったのであった。
 もちろんのこと、目撃者は相当にいたはずである。誰も怪我をしていないし、いや、本人だけだし、もいうことで「事件」は闇から闇にではなく、なんとも沖縄的共同体の中で明るく消えたように思えてならない。

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報告します!本日も交通事故はゼロであります。-2

 

うちなー的沖縄

報告します!本日も交通事故はゼロであります。-2
 けっしてこの▲★警察官の肩を持つわけではないが、おそらく日頃さんのからの住民への接し方は良かったのだろう。アメリカ兵を投げ飛ばしたのは沖縄が「復帰」をする前である。あの頃にアメリカ兵を投げ飛ばして怪我をさせることが、いったいどういうことだったのか。酔っては大暴れして、挙げ句の果てに銃をぶっ放したりするアメリカ兵などを相手に、たとえ怪我をさせても、記事にすべき新聞記者たちがどこかで拍手をしていた様子が目に浮かぶ。事件はあまり暗くない「闇」から「闇」で処理され、それがやがて▲■島における公式にはカウントされない交通事故につながったに違いなかった。
 時効になった話をしているのだが、ここでもう一つ、時効ではないが警察に関して消えていった過去の話をしてみる。
 「復帰」前の沖縄の警察についてである。沖縄県警ではなぬ、あくまでも琉球警察であった。沖縄の人間である一定の年齢以上の方なら憶えているはずである。あの頃の警察官は、みんなといっていいほどレーバン調のサングラスをかけていたことを。そして胸には保安官バッジみたいな記章を付けていた。まるでアメリカの警察官そのものであった。それはある意味では、もろアメリカの制度を導入していたわけだから当然といえば当然であった。「復帰」にそなえて、本土警察との交流が深まっていくのだが、あの頃だと、日本円の五百円玉と韓国の五百ウオン玉が全く同じであるように、沖縄の巡査と本土の警部の階級章が、全く同じだったというのは本当なのだろうか。随分と面白い混乱もあったのだろうな。

山本富士子と桃井かおりと連日あってしまった。

 

うちなー的沖縄

山本富士子と桃井かおりと連日あってしまった。

昨年、八重山へ遊びに行った。夏休みということで小学生の末娘も連れていった。4日間の予定が6日間になったのは台風のせいだった。
十数年前にも、そのときは上の娘を連れていったのだが、同じように台風にぶつかった。それは鳩間島でだったのだが、命からがらという感じで鳩間から石垣島行きの船に乗った。相当に危なかったらしく、途中から海上保安庁の第11管区の巡視艇が寄り添うように併走していた。
今回は飛行機が飛ばないというだけで、特別に危険というわけではなかったが、娘からは不評だった。那覇へ戻れない分だけ石垣島で飲んで遊んでいた。こういうときの友人たちというのは嬉しい存在である。「戻れなくて大変でしょう」と夜な夜な誘ってくれる。戻れなくて大変だったのは本当である。那覇で、どうしても片づけなくてはならない仕事があったのだが自然とは喧嘩もできない。
友人からの携帯電話を持って出かける。娘は宿でテレビを観ていたはずだが、父親が動くとなると一緒に行動せざるを得ない、それでブツブツ言いながらの付いてくる。学生時代から八重山にはよく通っていた友人・知人は多い。その中の友人夫婦と久々に飲んだ。
その友人氏の親父は島の名士だった。早い話が政治家であった。我々は学生の身であり、酒を飲み歩くほどの金はなかった。ところが友人の父親はいろんな飲み屋に酒をキープしてあった。それを一杯づつ飲んで次の店に移る。つまり一円、ではなく当時は沖縄がアメリカドルの時代だから1セントも出さずにハシゴして歩いていた。そうして歩いているとき、たまたま友人の父親が店にいて、仕方なく自前の酒を注文したことがある。その店は早々と出たのだが、次に来たときは店を閉めていて、なけなしの金でキープした酒はもちろんのこと消えていた。
もう一人の友人が馴染みにしているスナックに出かけた。初老の女性が一人で経営している店で、マスコミの客が多いということだった。店おみたいなの女主は、娘にかまっていた。よっぽどのことでもない限り、こういう若い客は来ない。なにしろ孫みたいな小学生である。なんやかんやいっても娘からすれば飲み屋でありつまらない表情だったのだろう。驚いたことに千円の小遣いまで貰って手にしている。娘はもう少し我慢してみようという顔つきになっていた。娘を店の人に任せて二人はおおいに飲みふけっていた。
千円をもらったことで、臨時小遣いを稼いだという思いがあったのだろうか、隣ではけっこう話が弾んでいるようだった。そのうち、妙な会話が耳に入ってきた。
「おばさんの名前は、富士子。山本富士子の富士子よ」「はぁー?」「山本富士子って知らないの?」というようなちぐはぐな会話であった。それは小学生だとしらないでしょうよ。中学生や高校生、ひょっとして大学生でも知らない名前ではないだろうか。
山本富士子を知っている世代からすれば、それは美人の代名詞でもあった。それを言う姿も面白かったが、それをポカーンと聴いている姿もなかなかのものであった台風のために閉じこめられていたのだが、そのことによる楽しみもあった。娘は寝るまえまでがうるさいのであって、いったん寝てしまえばこちらのものである。
娘は、山本富士子は知らなかったが、桃井かおりは知っていた。例の台風による飛行機の欠航で市内をぶらついていた。偶然にも、以前に二度ほど会ったことのある日本在住のドイツ人と出会った。
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山本富士子と桃井かおりと連日あってしまった。-2

 

うちなー的沖縄

山本富士子と桃井かおりと連日あってしまった。-2

「あいっ、こんなところで何している」という感じだった。彼の仲間は三人いた。
もう一人の女性だった。あれっ、どこかで会っているのだが、ほんの少しだけ間があいて気付いた。桃井かおりさんだった。本当は以前に会っていたのではなく、映画館やブラウン管で一方的に「会って」いるだけだった。こういう錯覚はときどきある。高倉健が東映のやくざ路線で輝いていた頃、路で行き会った本物のやくざ屋さんが、「うぉっす」と挨拶をするらしいというのを何かで読んだか聴いたかしていた。三人とこちらの二人の五人で遊びに行き、そして夕食も一緒にということになった。テーブルの目の前に女優が坐っている。なんとも不思議な光景だ。娘もそのように思ったかもしれないが、単なるミーハーである父親ほどの緊張感はないみたいである。なにしろ前夜は天下の、「山本富士子」さんともあっており、芸能界には慣れていたのかもしれない。
銀幕やブラウン管の印象とはまったく同じであった。沖縄では「テーテー物事(むにー)」と言うが、つまり舌足らずのしゃべり方はそのままであった。ディナーであった。とういことは最後にデザートも出てくる。注文のアイスクリームが色とりどりに並んだ。味はそれぞれに違うみたいである。桃井さんが、「せっかくだから、交換して食べましょう」と提案し、スプーンごと回してきた。「えっ、これって間接キスでは」。
家に戻り、間接キスだったと報告したら、娘は違うという。自分が舐めて、それをお父さんが舐めたと主張していた。