古波蔵家の半径45メートルくらいの世界。

 

うちなー的沖縄

古波蔵家の半径45メートルくらいの世界。

昨年末、あらたに世界遺産に登録されたが、那覇市内に限っていえば首里(跡)園比屋武御嶽、玉陵、それに識名園である。それぞれが割と規格の距離にあって、歩いていける距離に収まっている。我が家はその四か所の真ん中あたりである。

首里城と識名園を結ぶ道路がある。首里城は、沖縄が琉球と称していた頃のミニミニ国家の政庁であったし、国王の居住地でもあった。一方の識名園は国王の別荘であり、国外からVIPのための迎賓館としてのゲストハウスでもあった。

首里城と識名園を結ぶ道路は、いわば琉球国・国道1号線であった。この道路は石畳道路である。周囲の石垣囲いの石積みとマッチして、なかなかの風情をかもしだしている。国道1号線すべてが石畳というわけではなく、現存するのは全工程の三分に一程度だろうか。残りはアスファルトに埋もれてしまっている。しかし、敷き詰められたアスファルトを引き剥がすと、おそらくは現在でも立派な石畳が眠っているはずである。

個人的な話になるが、ボクの家の住所は那覇市首里金城町でつまり金城町石畳のすぐ近くである。うちの娘たちは、学校をさぼっている以外は毎日のように様道を登って小学校に通っていた。中学校は逆に坂を下ってさぼる以外は毎日のように登校していた(末娘は、いつまでも毎日のように下っている)。ところで、沖縄は上り坂と下り坂はどちらが多いと思いますか?答。完璧に同じ。

どうでもいいような古典的な「なぞなど」であった。

石畳は元々から観光スポットであったが、最近ではかなりの方々が訪れるようになっている。それもほとんどが地元客。これにはワケがある。NHKの朝ドラ{ちゅらさん」の古波蔵家が石畳道に面している設定になっているからからだ。平良トミおばぁ、堺マチャアキ恵文、田中スーチャンママ、ゴーヤーマンことニーニーなどの一家が構えていることになる。

ちゃんぷるー

 

伝統的宮廷料理のおもてなし2

 

また、正月料理に関しても本土のお節料理のように特に決まったものはなく地域によって献立は様々。一般的には、大晦日にソーキ汁を作り(昔は年末年始に豚を一頭殺したが、最近はほとんどみられない)年越しをし、正月には縁起の良い料理や豚肉料理を中心に東道盆(トゥンダーブン)や重箱、大皿などに出して盛りつけて出している。

東道盆(トゥンダーブン)の優雅な盛りつけ

東道盆(トゥンダーブン)は、もとは中国から伝わったと言われ、琉球漆器の精緻な技巧が施され豪華な前菜入れで、その優雅さは琉球王朝時代の華やかさが偲ばれる逸品である。中にはいる料理は、色や形の美しいもの、冷めても味の変わらないものなどがととのえられ、代表的なものに、身の厚いクブシミ(甲いか)の切り身にいろいろな切込みを入れて、花のように赤く染めた「花いか」や、豚ロースに黒胡麻だれをまぶして蒸した「ミヌダル」(黒肉とも呼ばれている)、豚ロースの薄切りでごぼうを巻き込み、じっくり煮込んだ「豚肉ごぼう巻き」からし菜のしぼり汁で色と香りをつけた緑色のかまぼこ「からし菜入りかまぼこ」、卵を多く入れた厚衣で揚げた「魚のてんぷら」、子孫繁栄を意味するめでたい食べ物として有名な、沖縄特産の田芋をから揚げにし、佐藤醤油でくぐらせた「田芋のから揚げ」などがあり、料理の種類は5品、7品、9品など、奇数と決まっている。これは東道盆(トゥンダーブン)に限らず、沖縄では料理の決まりごととなっている。

正月など、祝料理に使う食材は、豚肉を中心に、芋料理は子孫繁栄を、、昆布天ぷら、かまぼこは喜びを表すというように、それぞれめでたい時に食べる料理としての意味があり、行事の多い沖縄の家庭では、これらは代々受け継がれている。

※東道盆(トゥンダーブン)

中に奇数な区切りのある豪華な前菜入れ。琉球漆器の代表的なもので、ちゅごくから渡った食料の一種。中国語で「東」は主人を意味し、「東道」はお客様に対する主人役を意味することから、お客様を接待する時にごちそうを盛る盆のこと。現代は、正月料理を盛る器、豪華なおもてなしに使う器として定評がある。

沖縄音楽の裏面と表面。

 

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沖縄音楽の裏面と表面。

沖縄通の親しい友人がいる。氏名は訳あって表に出せないが、通称ミック・ジャガーということになっている。ローリング・ストーンズのミック・ジャガーのパロディーなのだが、とりあえずは公務員係のロッケンローラーである。なにしろ、オールディーズ系の有名バンドのオーディションを受けたくらいである。幸か不幸かオファーがなくてアファーになったが、気を取り直して公務員を続けている人物である。歌唱力は自他ともに認めるところであるが、欠点はミック・ジャガーみたいに顔が濃くない点にあったと思う。それと幾分かはセクシーさにかけていたのかもしれない。彼が結婚をするというので、披露宴をやりたがらない彼のために強引に披露宴を挙行したことがある。彼に合わせてライブハウスで行うことにした。あのモンパチも活躍していたライブハウスである。派手目がいいだろうということで、国際通りに面した入り口付近に、パチンコ屋新装開店の時に見られる派手な花輪を10本並べておいた。

私が原稿を書く場合に、彼は欠かせぬ存在であり、特に音楽関係となると凄ざましいばかりに力を発揮してくれる。昔の曲名が思い出せないなどと電話をいれると、即座に回答が返ってくる。一発選曲ならぬ一発回答男である。そのミック・ジャガーに例の如く電話をいれた。「ジャガーレコードで一番に売れた曲はなんねぇ?」「およげタイヤキくん」ですね「次売れたのは?」「ピンカラトリオの「女の道」です「女の道」はA面だが、B面の曲を教えてほしいのだけど」ちょっと待ってください、調べてみますので10分くらい時間下さい、と言う。計ったかのように、10分後に談話がきた。

「わかりました、「沖縄のひと」です。約326万枚売れていますね」

 

 

沖縄音楽の裏面と表面。-2

 

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沖縄音楽の裏面と表面。-2

ほんとうに訊きたかったのは、「沖縄のひと」の存在であった。ここでレコードについてCD世代やDVD世代のために簡単な説明をする。レコードはA面とB面があり、裏表にレコード針用の溝があって音が出る仕組みになっている。一応はA面がメインとなって発売されるのだが、実に面白いことにA面が売れるとB面も同時に売れることになる。当たり前の話だが、発売枚数は奇跡的に同じ枚数となる。

「沖縄のひと」は326万枚も売れたのである。浜崎あゆみもGLAYも、宇多田ヒカルも安室奈美恵も真っ青な数字である。統治で言うならば、全国の家庭の十所帯で聴かれていたことになるのでは。だが、不思議なことに肝心の「沖縄のひと」を覚えている人がいないのである。実は私も知らないし、おそらく沖縄の人間でもほとんどの人がその存在すら知らないと思われる。幻の「大ヒット」曲ということだ。このA面とB面の関係だが、これは沖縄レコード業界にもあった。手許に数字があるわけでもないが、メイドイン沖縄のレコードで一番のヒット曲はフォーシスターズの「丘の一本松」と大工哲弘の「山崎ぬアブジャーマ」であろう。「丘の一本松」は沖縄芝居のタイトルそのままの曲で芝居同様に大ヒットした。沖縄における高校生たちの文化祭では定番の芝居である。

「山崎ぬアブジャーマ」というのは八重山を代表する民謡で、歌詞の内容は、かなりスケベ―的である。アブジャーマというおじいがいたのだが、このおじいには二人の愛人がいた。周囲からしたら、それではあまりにも不道徳すぎるということで、一人は本妻に、一人は妾にしたという、なんとも羨ましいような決着を図ったことが謡われている。

少し話題をそらすが、この絶倫おじいのことを謡った。「山崎ぬアブジャーマ」だが、私の職場の隣にある開南小学校の運動会では、行進曲としてこの曲が流されていた。教師たちは知ってか知らずか、私のほうが赤面していた。

この「山崎ぬアブジャーマ」はいわゆるB面であった。ということは「丘の一本松」がA面ということになる。A面とB面の関係は複雑である。「山崎ぬアブジャーマ」ではないが、いったい誰が本妻で、誰が妾なのか、あるいは誰が(A)で、誰が(B)なのか、なかなか判断が難しい。

本来だと同じ歌い手がA面とB面で構成しそうなものだが、ここがかつての沖縄音楽界の不思議な部分であった。適当、という言葉はどうかと思うが、しかしテーゲーとしか思えないような組み合わせでもってA面とB面が決まっていたように思う歌い手たちの意思などまったく無視するかのようにレコードが出来上がっていた。

最近では気軽にCDが出せる時代になったが、レコード時代は、それこそ面倒な手順を踏んでの制作だったという。インディーズなどという言葉すらもない時代であった。そういうなかで、無謀にもレコードを、それもシングルではなくLP版を出した友人がいた。和宇慶文雄である。彼は「歌手」という肩書を手に入れた。その彼が渾身の力をいれて製作したLPだが、期待したほどには売れなかった。これは風の噂なのだが、彼の故郷である泡瀬海岸で沖に向かってレコードを投げて遊んでいたという風聞が那覇まで届いた。可哀想に、よっぽど売れなくて、処分に困ったのかレコードを海に投げる気持ちはいかばかり。後日談だが、「んじ、レコード投ぎたんでぃな」(レコード投げ遊びしたって?)」と私が訊いたところ、やはり、「歌手」というプライドがあったのだろうか、問いには答えず、「レコードでぃーしや、ゆー飛ぶんどー(レコードって奴は、実によくとぶものだ)」と言っていた。

社長は、もっと真面目に泡盛をつくれーっ!-2

 

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社長は、もっと真面目に泡盛をつくれーっ!-2

「ウィ、あなたが新垣博一さんなのご活躍ですね、ウィ」という雰囲気だったさらに言葉を続けて「ウィ、貴方はどうして八重ヤな出身なのにシンガキなの。普通、八重山ではニイガキでしょう、ウィ」と畳み掛けてくる。さて、困ったのはニイガキさん、おお、ロミオよロミオ、あなたはどうしてジュリエットなの状態であった。ニイガキさんはそもそも八重山の出身ではなく、座間味島のニイガキである。ウィウィと訳の分からないフランス語みたいに迫ってくる女性に口を少し尖らせて、「こっちの勝手でしょ」という感じになっていた。

止まり木友達の社長は豪快な方である。口は極めて悪く、いつでもバカタレを乱発する。こちらも手慣れたもので、私は影の営業部長で、よく行く飲み屋に社長のところの銘柄を置かして貰ったりしている。ただ、知り合いだからではなくて実際に美味しい酒であり、沖縄以外からの評判はかなりなものである。

ところが、最近になってこの酒を見かけることが少なくなった。あまりのも評判が良くて、ほとんどが本土向けに出荷されているためである。「それはないじぇ社長」と、携帯に電話を入れたのだが、社長はいつもと違って大きな身体を縮じめるようにして8携帯から相手の姿は見えないが、おそらくはそうであったはずだ)、蚊の泣くような声で、「ごめんなさい」をしていた。

最近になって、ついにいつもの飲み屋で久々に逢った。酒はどうなっているのですか!と言う前に先制の返事が返ってきた。大きな身体を折り曲げるようにして「ゴメン、ゴメン」を繰り返した。この関係、いつも原稿が遅れるミヤジャト重と編集者との関係に似ているものだから、社長の気持ちもわからないわけでもない。しかし、ここで甘えかしてはいけない。根をあげているのはボクだけではないのだ。この銘柄を愛している店の人たちとあることを考えている。デモをしてシュプレヒコールで声を挙げる。それも交際通りで。「社長は真面目に酒を造れー!」とか、「泡盛ファンを不安にするなー!」などと道行人に訴えようと思っている。ただデモだけでは面白くないから、フォークギター持って、頭にはバンダナでもキリリと締めて、馬鹿でかい声でがなりたてるようにして、歌ってけばいよいよ効果があるかも知れない。「俺たちは社長の酒が好きだー、社長の造る酒は最高だー」などと、つまり誉め殺し作戦である。きっと、道行ウチナーンチュや観光客は引いてしまうに違いない。これこそが作戦であり、社長はついに堪えきれなくなって、「バカッタレ、造ればいいんだろう」と言うはずである。それほどまでに好きな銘柄が飲めないということは辛いのである。ところで、いつもの店での久々の再開であったが、社長は自分の銘柄の泡盛ではなくて他社の酒を飲んでいた。

社長も辛いのね。

社長は、もっと真面目に泡盛をつくれーっ!

 

うちなー的沖縄

社長は、もっと真面目に泡盛をつくれーっ!

酒はよく飲む。まずは生ビールを一杯か二杯飲んで喉を潤す。

ではという感じで泡盛に移る。暑かろうが寒かろうが断固として湯割りなどしない。やはり氷との相性がいい。最近はウッチンで割ったりもするが、それでも氷は必需品である。それにしてもウッチンは身体にいいということで、需要が相当に伸びているという。でも、不思議な話だ。ウッチンとセットで酒を飲んで健康になろうという不逞な輩が周囲には多い。まっ、いいか、という感じでもないが。

那覇の人間であるから、基本的には那覇で造られた酒を飲む。ここらあたりはかなりのこだわりがある。酒造所の税金は那覇市に落ちるのだから、ここは断固として譲れない。

ある飲み屋で、某酒造所の社長と知り合いになった。止まり木で肩を並べている内に、なんやかんやとユンタクをしていた。「そうか、君も、ミヤジャトか」ということで何となく意気投合していた。酒を飲んだら、原則的には意気投合するようにしている。

話を戻す。同じミヤジャトさんだが、「君は垣花か」と訊いてくる。那覇近郊でミヤジャトだと、たいていは垣花出身ということになる。「いいえ、与儀です」と応えたのだが、どうしてミヤジャトだのに垣花ではないのだ、とばかりになんとなく納得していない様子。

これと似たようなことを思い出した。本の編集のことでだったと思うが、ボードーインクの新垣博一さんと飲んでいるときの話。その場所も、ミーグルーになった同じ居酒屋だった。二人で打ち合わせと称して飲んでいたのだが、ある人が我々の席に乱入してきた。これも同僚なのだが、ただしこの人は女性であった。

随分と酒が入っている様子であった。

咲かせてみます 勝利の花を

 

うちなー的 沖縄

咲かせてみます 勝利の花を

 

島の各地に貼り巡らせたポスターのコピーが目を引いた。

熱く燃えるこの身体

誰も止めることはできない

この想い

咲かせてみます勝利の花を

一見、何のコピーかと思うほどだ。なにやら演歌っぽいし、男と女の壮絶な恋愛のようでもある。コピーから目をパーンしてみると、そこには「軽重量級優勝旗争奪戦」と鮮やかな朱でもって文字が描かれている。やはりボクシングかプロレスのタイトルマッチとしか思えない。

でも違った。

一群が王者を取り巻くようにして跳ねながらやってくる。チャンピオンはその名にふさわしく威風堂々としている。鍛え上げられた肉体美がそこら中に振りまかれる

「ワイド―、ワイドーワイドー」

おそらく小学校の高学年くらいであろう少年たちが独特の太鼓を打ち鳴らしながら先頭を往く。そのすぐ後ろからは一塊になって少年、中年、それになぜかしら若い女性たちも続く。戦争中の進軍ラッパを「パッパラパ、パッパラパ」と吹き鳴らす者もいる。

主役は露払いの少年たちをはべらして、ゆったりとまるで牛のようにノッシノッシと辺りを威圧しながらやってくる。あっ、牛のようにではなく、牛そのものの歩みであった。

徳之島は闘牛の本場である。沖縄も盛んだし、四国には宇和島がある。しかし、徳之島は一つも二つも抜けている感じがする。以前もそうだったが、今回も沖縄から多くの闘牛ファンが島を訪れていた。同じ闘牛でも何が違うのだろうか。沖縄では鼻綱を括ったままだが、徳之島ではガチッと牛と牛がぶつかった瞬間に鼻綱を切るという違いはあるものの、それほどの決定的な違いとは言えない。実際、徳之島と沖縄では、けっこう牛のトレードも行われているようで、闘牛大会に出場する牛の旧姓は沖縄姓であったり徳之島姓であったりする。

もともとが農家の娯楽として発達したことは沖縄も徳之島も同じである。インドネシアのマドゥラ島では農耕牛を使ってのレースがあるが、これも農閑期を利用しての数少ない娯楽として発達したことに相違はない。

ならば、いったい何が違うのか。

若い人である。牛の取り巻きもさることながら、会場内には圧倒的ともいえる若者が詰めかけていた。そもそも今年の正月元旦には、「昭和55年生成人記念大会」開かれていた。昭和55年生まれの同窓生たちが主催して、何と闘牛大会を開催していたのである。闘牛大会といっても、そう簡単なことではない。大会運営者には、おそらく一千万円を超える金額が必要なはずである。それを新成人たちがやってのける。市長に向かって、クラッカーを投げつけたり、単に集団心理でもって会場で酒をラッパ飲みしたりと、日本中の新成人の印象をすこぶるおとして、のちほど情けないほどの泣きを入れた甘ちゃん連中とはわけが違う。

 

咲かせてみせます勝利の花をー2

 

うちなー的沖縄

咲かせてみせます勝利の花をー2

若い人が数多くと書いたが、それがいか程のものか、その一端を。沖縄島中部での闘牛を何度か見たことがある。そこでは、どちらかというと男中心で、それもやや年配者が多い。女性の観客はほとんど見受けられず、いたとしても飼主の家族くらいという印象を受けた。それが徳之島ともなると様相が一変する。

驚いたことに、どうも闘牛はデイトスポットになっているようなのだ。

「今日のデイトはドライブにしようか」

という彼。それに対して彼女は、「んーん、伊仙の全島若手花形闘牛大会がいいな」などとなる。

こんな具合だから、会場内は若夫婦と子ども、おじぃと孝行孫娘、おばぁと嫁などと数々の組み合わせで客席に坐っている。なかでも目を引くのは、女の子たちのグループである。もちろん、中学生くらいの少年たちが一塊になって熱狂的に応援している風景が多いのだが、女の子たちがついつい目立ってしまう。

試合は次々と展開されていくのだが、ときおり、携帯電話を片手にした女の子が会場内から飛び出して、「勝った、勝った、勝った」と誰かに報告をしていたりする。まるで、「前畑ガンバレ、ガンバレ、前畑勝った、勝った、勝った」状態なのだ。

一方、少年たちの活躍も目立ちはする。大応援団に囲まれて会場入りする際の、牛をひっぱる役目はたいていが高校生くらいである。一様にピアスをしていて、髪は闘牛焼きというよりは人工着色としての茶髪が多い。得意げに牛を引く姿は頼もしい限りだ。

会場周辺では、あいかわらず「ワイドー、ワイドー」の掛け声が響いている。宮古島においても「ワイドー」は用いられるのだが、ここでは牛に気合を入れている感じ。飼主宅から闘牛場までは専用の運搬車で運ばれてくるのだが、勝った後は、運搬車に若い親衛隊が乗り込んで、それこそ「ワイドー、ワイドー」の嵐である。荷台で飛び跳ねながらであるから、車全体がポッコンポッコンと上下に揺れていた。

会場では勝った牛に、幼い男たち数名が牛に乗せられて手踊りをしていた。この幼い子たちも自然と闘牛の血が植えつけられるのだろう。これこそ伝統という感じがした。

ところで、負けた牛はどうなるのだろうか。場合によっては再起不能なほど、手傷を負うことだってある。きっと、食べられてしまうのだろうな、と考えていたのだが違った。自分たちでは食べないという。心から愛しているのだ。