沖縄を含む日本列島 選挙風景夏景色

 

うちなー的沖縄

沖縄を含む日本列島 選挙風景夏景色

 

夏に行われた衆議院議員選挙の開票状況を、片手にビールを持ちながらテレビで視ていた。最後には、ちょうど高校野球の甲子園大会の開会式並みに、北は北海道から、青森、秋田…東京、神奈川…宮崎、鹿児島、そして沖縄という日本列島北から南という具合に当選者の事務所風景の中継が続いた。その中継にはある共通したパターンがあった。それがなにかというと、例の「ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい」の万歳三唱風景であった。中には「ばんじゃーい」もいた。負けた側は候補者が頭を深々と垂れての「私の不徳の致すところです」であった。

かつての選挙でアントニオ猪木が当選したときは「ダーッ!」のガッツポーズであったが、いまは没個性的に、ひたすら万歳三唱を繰り返す。せっかく夜中まで起きてテレビをみ見てあげているのだから、なんとかならないのかねー、と常々考えている。例えば、腹芸が得意な政治家だったら、候補者自らのお腹に絵でも描いて踊って見せるとか。敗れた候補者の場合だと、例えば、本音とはほど遠いような「私の不徳の致すところです」ではなくて、自分の落とした有権者と運動不足だったかもしれない運動員に向かって中指を立てて見せるとか。なにかいまひとつインパクトが足りないなー。もっとテレビ向けのパフォーマンスが求められているのではないか。政治離れが激しいのだから、政治家の皆さんはいかに政治を生活者に引き寄せるかの研究を心がけて欲しい。

甲子園の入場行進並みに北から南であるから、沖縄からの中継は当然の事ながらしんがりをを務める。ところが最後の最後に見せ場があった。沖縄で当選した候補者の事務所では、候補者をはじめ全員が踊っている。例のカチャーシーってやつだ。万歳列島、あるいは不徳の致す列島にあって、この踊りはテレビ時代にあっては一級に属するのでは。自民党だろうが共産党だろうが、とにかく沖縄は踊って喜びを表現する。

せっかく選挙の話になったから、ついでにもう少し選挙について。

沖縄の選挙で特徴的なことといえば、選挙ポスターかも知れない。候補者名がカタカナであるのが最大のポイントだろう。なんとなく沖縄に住んでいて、それで沖縄の気候のように何となくぼーっと道を歩いているものだから気付かないのだが、たしかに沖縄の候補者ポスターではカタカナが主流を占めている。一説にはカタカナよりひらがなよりも書きやすいからというのもあるが、それは眉睡だと思うな。ひどいのは、字が書けない人がいるからという有権者を小馬鹿にした説もある。

 

沖縄を含む日本列島 選挙風景夏景色ー2

 

うちなー的沖縄

沖縄を含む日本列島 選挙風景夏景色ー2

いまどきそんな無形文化財みたいな人がいるかよ。笑ってしまうのだが、ボクが勤めている職場の組合選挙でもカタカナが登場する。対象者が市役所の職員だから、どうみても義務教育程度の学力はあると思うのだが。単なる慣れでもってカタカナを使用しているとしか思えない。

それと、沖縄ではやたらと候補者名を縮める傾向にある。例えば「大田」は「オータ」、「恵一」は「ケ一」となり、「マッキントッシュ」が「マック」であるように「一太郎」は「一タロ」となる。縮めたうえに変則的な読み方をする場合もある。これがなかなか笑える。例えば「庄一」だと、なぜかしら「ソ一」になる。「しょう」は簡略されて単に「ソ」で、その結果、「庄」を無理矢理縮めて「ソ」になるというもの。

目からうろこが飛び出して、それがどこまで飛んでいったかわからなくなるほど最大にわらったのは、これは沖縄中央部のエイサー処での選挙ポスターの話。電信柱に貼られたポスターには、大きな文字で「スキン」。学校帰りの女子高生には馬鹿受けした名前であったはずだ。ひらがなの「すきん」ならともかく、なにしろ「スキン」である。一人では恥ずかしくて目をそらすように無視されても、これが集団下校の女子高生諸君たちにぶつかると、「ゆくさーひゃー(うっそー)、まさかひゃー(信じられない)」であるとか、「あきさみよー(いやぁー)、しにはごー(きたなーい)。うわっはっはっはっは」状態となる。それにしてもスキンはないよな秀金さん。

先日、ある統計で興味深いのがあった。子どもたちに、「あなたは将来、どのような事をしたいのですか」というようなものであった。公務員であるとか、看護婦であるとかが多かったのだが、政治家になりたいというのは信じられないほどに低い数字であった。

 

日本の政治は随分と国民から遠い存在のようだ。政治イコール悪いという印象を長い間に植え付けてしまっている。政治が身近ではないのだ。で、ということもないのだろうが、庶民に身近な存在でありたいという意識の表れなのか面白い選挙ポスターを見たことがある。

わたしはキャベツ。

これではまるでなぞなぞみたいなものである。少々の説明を要する。沖縄の言葉ではキャベツのことを「たまなー」という。語源は玉菜ということ。「わたしは、たまなー」。ここまで説明して解る人は沖縄の人。

そう、玉那覇さんという候補者だった。こういうのは結構面白いが、でもこの方はたしかポトン(落選)だった、はず。

宮古島から橋を渡ったら、そこはカリブだった。

 

 

うちなー的沖縄

宮古島から橋を渡ったら、そこはカリブだった。

ひさびさに宮古島へ行った。目的は映画と豆腐。

映画とはいっても、わざわざ那覇から宮古の映画館まで足を運んだわけではない。映画のロケである。日活の「きみのためにできること」(篠原哲夫監督)へ立ち会ってきた。映画の中で、沖縄の祭祀に関する音源が必要だという事で、そのテープを携えての参加だった。そのテープを銀幕の中で扱う役どころが岩城滉一。ところで日活と聞いて、赤木圭一郎や石原裕次郎、小林旭を思い出す世代と、日活ロマンポルノを想起する世代がある。ボクなどは前者なのだが、ロケはポストロマンポルノの第三期日活映画だった。

映画はそれくらいにして、話は豆腐に移る。

沖縄豆腐に凝っている。日本豆腐と沖縄豆腐の根本的、かつ決定的な違いは冷たいか熱いかだけ。宮古島にはけっこう手作りの豆腐があるという事で、豆腐屋を回っていた。どこかのコーヒーメーカーではないが、豆腐屋の朝は早い。そこであるA豆腐屋でのおばぁとの会話。

作ったら、どこで売るのですか。

「市場にが持って行くべきであるサ」

次にB豆腐屋でのおばぁとの会話。

やはり、にがりは海水を使うのですか。

「そうよ、うちは昔から。うちは海には行かないが、あれ(ご主人のこと)が汲みにが行く。不思議にも満潮と干潮でも海水の味は違うそうですよ」

そこへ海水を汲み終えた戻ってきたご主人に聞いてみた。干潮で味が違うって本当ですか。

「違うはずないさ、同じ!」

沖縄内にあっては、宮古の「標準語」は独特のスピリッツとイントネーションがある。いっけん、ぶっきらぼうでとっつきにくい気がするが、なかなかに味のある話を聞かせてくれる。

最近は宮古でも大手の豆腐屋が出現してきているが、それでもけっこう隣近所を対象としたほそぼそ豆腐屋が頑張っているみたい。ということで、宮古島周辺の島々はどうなっているのか池間島と来間島に行ってみた。

池間島にも来間島にも、いまでは立派な橋が架けられたが、それ以前は堂々の立派な島であった。そこでまずは豆腐について訊ねてみたところ、案の定というか豆腐が消えていた。そうかぁ、橋が架かると島の豆腐屋が消えるわけね。渡し舟が惜しまれつつ消えていくのと同じなのね。渡し舟だと、必ずといっていいほど、「最後の渡し、長い間お疲れさまでした」的なニュースになるが、ところが我が豆腐はそうはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宮古島から橋を渡ったら、そこはカリブだった。-2

 

うちなー的沖縄

宮古島から橋を渡ったら、そこはカリブだった。-2

やめたのではなく休止中というのもあったが、ここで一つの法則を発見したのだった。橋が架かると島の豆腐が消える。島の場合は、勇逸の豆腐だったのが橋とともに大量生産の豆腐が渡ってくるのだろう。そういえば、ハワイ・ホノルルのダウンタウンで見かけた豆腐には、たしか「ISLAND TOFU」と表示されていたな。直訳すれば、これはひょっとして「島豆腐」ではないか。ハワイはメインランドと橋でつながってないもんね。

豆腐を訪ねての池間島だったのだが、島そのものが面白かった。橋を渡るとき、左手には風量発電機5基が辺りの風を切り裂くようにブルゾンと回っている姿が見え、左手には大神島がのぞめた。橋の下の海の色は、不自然なほどにプール色だった。おりしも、その日は池間公民館の落成式があって黒塗りの車も来ていたが、やはり主役は島のおじぃ。おばぁ達であった。どなたも着飾って、それはまるでカリブの島々の人々が日曜日の教会に出掛けるような光景だった。カリブ海でわかりにくければ、日曜日の朝、ニューヨークはハーレムの教会一帯と言えば理解しやすいだろうか。おばさんたちは、地味な柄ながらもその日用という感じの糊の効いた服装で会場に向かう。おじさんたちは一様にスーツ姿でマイカーの自転車に乗ってキーキーとブレーキの音をきしませてやって来る。

新装された公民館前には、入りきれない住民のためにテントまで用意されていた。式典がはじまる前から、島のおじぃたちは三々五々にガジュマルの木の下でたむろしていた。とってもいい光景だった。海岸近くで風がよっぽど強いのかガジュマルは柳生博カットみたいに陸地側にたなびいていた。その木陰でおじいたちが坐りこんでの話が続いていた。

落成式典であるから、沖縄、特に島らしくびっしりと余興が続いていた。オープニングは、この世の極楽鳥かと見まがうほどの鮮やかな紅型衣装での踊り。お歳は絶対に80歳近くだったはずだが、ひょっとして超えていたかも。圧巻は男子高校生たちによる「チャイナ・タウン」の踊りだった。サンフランシスコのなんとかかんとかという歌である。このように古い民用曲に振りをつけての踊りというのは島の伝統であるらしく、先輩たちから引き継いでいるとのこと。実に優雅で素晴らしい。彼らは何一つ照れることなく大きなセンスを広げて妙に生々しい腰つきで舞っていたのだが、それを見ていて何だか時間が止まったかのような錯覚を覚えてしまった。

 

 

国際通りGメン’75

 

 

うちなー的沖縄

国際通りGメン’75

レレソー ソラシド―シード― ♪

うーうー ううう~~ ううう~~ ううう~~

憶えてるだろうか、「Gメン’75」のことを。憶えてるだろうか、丹波輝党、夏樹陽介、倉田保昭、岡本富士太、原田大二郎、藤田美保子という面々のことを。憶えているだろうか、朝露の滑走路を、「Gメン’75」のテーマ曲にのって丹波哲郎を中心に七人の刑事が横並びシテ歩いている姿を。

それまでの刑事モノをはるかに超えた国際感覚あふれる番組で、それまでのモノに比べて特別捜査班ありとかで、とにかく新鮮だった。レレソー ソラシド―シード― ♪うーうー ううう~~ ううう~~ ううう~~から三十年余りが経過した。

三十年前の沖縄は、「オキナワ」であった。難しい政治的な時代背景の話をするとそれだけでせっかくの紙面が消えてしまいそうなので割愛をするが、オキナワはいったい何処の国なのかというほど無国籍感が漂っていた。「Gメン’75」の敏腕刑事たちに負けないくらい、たとえば沖縄の税関などはレーバンのサングラスなどでキメていた。もっとキマっていたのは警察官だった。沖縄がオキナワの頃で、琉球警察といっていた。なにしろ、ここはフィリピンかと思えるくらい警察官のレーバンは定番であった。胸元の警察バッジだが、あれは絶対にジョンウェインなどの西武保安官と同じような大きなバッジだった。「沖縄もそろそろ施政権がアメリカから日本に変わるから、警視庁に出張して研修してきなさい」、と時の琉球警察局長が現場勤務の若い警察官に命じたことだろう。その結果、選抜された数名の若き警察官たちが熱き使命感を帯びて、琉球海運の東京直行便のひめゆり丸に乗り込んだ時に一九七一年、花のお江戸は桜吹雪の春の宵。知念保を初めとする研修生一行は晴海ふ頭から花の第四機動隊のバスに乗せられて桜田門の警視庁入り口に到着した。当時としては珍しい沖縄からの客人である。警視庁では総力で県芸の意をあらわすべく、お堀あたりから桜田門まで堵列で彼らを迎えた。バスから次々と降りてくる琉球警察の精鋭たちの誰もが濃いオジサンジラー(面)にレーバンなのだが、歳は明らかに二十歳そこらである。彼らは精鋭らしく、「小さな前ならい」をした後に敬礼を知る。彼らを迎えた警視庁側は一様に青ざめてしまった。震撼したといってもいいのかもしれない。一行は20代の巡査だけと聞いていたのだが、目の前に並んでいるのは若いのだが全てが警部ではないか。それは階級章を見れば一目瞭然であった。

なんということでしょう、琉球警察の巡査の階級章と日本警察の警部の階級章がほとんど同じだったということはいろいろな混乱を招いたことだろう。

ところで、今回の100号の「うちなー的沖縄」は警察官のはなしではなく、人間国宝がテーマであった。

 

国際通りGメン’75ー2

 

うちなー的沖縄

国際通りGメン’75 ー2

沖縄だ最新の人間国宝認定者は城間徳太郎さんである。古典音楽、特に組踊の三線演奏を極めたのだ。何を隠そう、この方と私は同じ集落生まれである。直線にすると、百メートルくらいの近さである。那覇市与儀というところだ。与儀はいまでこそ那覇市なのだが、かっては島尻郡真和志村字与儀だった。首里王府の頃から、農産物の供給地であり、その歴史は戦後に至るまで続いていた。比較的那覇市の市街地に近かったのだが、それでも「日本むかしばなし」的な雰囲気を持った静かな集落だった。花卉園芸を持った静かな集落だった。花卉園芸が盛んで、周囲はお花畑に包まれていた。こういう環境のところから人間国宝は生まれるのである。ヨーロッパの画壇で、でーじ活躍中の幸地学さんも与儀なのだ。それから、それから、えーっと、あとは、いないか。とにもかくにも人間国宝が生まれたのだ。

琉球古典音楽関係には照喜名朝一さんと島袋正雄さんもいらっしゃる。このお二人は安冨祖流と野村流である。なんだか流派が異なると、どうなのだろうか、と思うのがわれわれ素人の発想。この二方、実は仲が良くて二人して県庁の周辺とかでお見かけする。でも、これって凄いことなのだ。人間国宝には失礼だが、全国的には人生のリーチがかかっている方が結構多いのではないだろうか。それが二人して、かくしゃくという言葉も無縁のように普通に歩いておられる。なんとも素敵ではありませんか。

人間国宝というこらいだから、その方々は日本の宝というここになる。ところで、現存する人間国宝は五月十日現在で一○四人である。そのうち六人が沖縄なのだ。くどいようだが、強調する意味でくり返す。そのうち六人が沖縄なのだ。もっとくどく言えば、私が住む那覇市だけでも四人が。沖縄がこれほどまでに高いシェアを占めるのは米軍基地と人間国宝ぐらいのものではないだろうか。えっ、違うって。そうかぁ、安室奈美恵をはじめとする芸能界もすごいよね。えっ、違うって。そうかぁ、宮里藍をはじめとするゴルフの女子プロもすごいよね。

二○○七年一月一日の早朝。所はモノレール牧志駅近くの国際通り付近。七人の人間国宝が横並びになった。いよいよ、である。

観光客の入込数は堅調ながら、某県庁の人たちは、もっと増やしたいとのことから観光沖縄を世界的にアピールする手段としてある計画を練った。

「Gメン’75」から32年が経過している。あの滑走路を歩く姿は実によかったなぁ。実にビジュアル的だ。そうだ、沖縄の人間国宝の方々が、那覇の国際通り、それも早朝の朝霧の中を歩いたらどうなるのだろうか。きっと沖縄の文化性を発揮できるのではないかしらん。

前年(二○○六年)、85歳で亡くなられた太鼓の島袋光史さんの遺影を中心に、右に城間徳太郎さん、島袋正雄さん、朱里織の宮平敏子さn、照喜名朝一さん、紅型の玉那覇有公さんという堂々たる布陣ではないか。どうだ。参ったかという感じでである。

で、たまたまだが先日、照喜名朝一さんと立ち話をする機会があった。「先生、

かくかくしかじか、なのですが」と国際通りGメン作戦のことを伝えたら、「面白いね、いいじゃないか」とのこと。那覇市東町自治会長でもある照喜名さんのノリは丹波哲郎でさえあった。

那覇の公設市場は、ゴルゴ13風オバサンだらけ。

 

 

うちなー的沖縄

那覇の公設市場は、ゴルゴ13風オバサンだらけ。

なんともすさまじいばかりのミーハーではないか。でもこの少年の行為は一途で純粋である。危険をかえりみないで岩石のとうな男に接近戦を挑む。

触りたがる、なでたがる、あるいは血拓を取りたがるのはなしを書いているが、これを沖縄的に眺めてみると闘牛がそれにあたるのでは。いざ、決闘場に向かう牛に対するオーナーや関係者たちの愛情表現は、やはりひたすらなでまわす。勝ったら勝ったで、なでまわすを通り越して頬ずりするように愛撫する。

ウチナーンチュのミーハー度はプロレスファンの少年たちに負けないくらいに超一級だと思う。テレビでみかけた顔には、ついつい親しみを込めて接する。なんだか隣近所の人みたいに、あるいは古くからの知人みたいな感覚かもしれない。仮に東京あたりだとしよう。スターやマスコミ人とかが意外と闊歩している。内心は、「あっ、にしきのあきらだ!」だとか、「おっ、浜尾朱美だーっ!」と、声には出さない声がありそうではある。だが、触ったりまではしないだろう。せいぜい遠くから見つめ倒すくらいのものだろう。

究極のミーハー事件があったという。土井たか子が衆議院議長時代の頃だと思うが、彼女が選挙応援で那覇の牧志公設市場にやってきたときのこと。

余談だが、ボクは公設市場での選挙活動というものを割とするどく観察している。市場には多くの働く人がいる。市場だから、そこには多くの買い物客がいる。そこへたすき掛けの候補者たちはやってきて、「お騒がせいたします、○×△□です。よろしくお願いします」といいながら本当にお騒がせしている。そこは交通整理が必要なほど、あらゆる候補者にしても運動員にしても、すこぶる満足した表情で市場を後にする。たしかに魚屋のおばさんも、肉屋のおばさんも、鳴り物入りでものすごい反応を示す。一斗缶をガンガン鳴らしてのエールを送ってくる。候補者はここで捕らぬ狸の皮算用を地でいく。

 

那覇市公設市場は、ゴルゴ13風オバサンだらけ。ー2

 

うちなー的沖縄

那覇市公設市場は、ゴルゴ13風オバサンだらけ。ー2

やがて別の候補者がやってくる。その次の候補者もやってくる。その次の次もやってくる。市場のおばさんたちは実に民主的である。誰分け隔てなく一斗缶をガンガン。候補者を差別も区別もしないというのはすごいことだ。こちらあたりは見事な商売人だと思う。話が少しそれた。土井たか子の話であった。彼女がやはり市場に入ったときのこと。例の如く、市場のおばさんたちは鳴り物入りで迎えたのだが、そこからが少し違っていた。衆議院議長であるから、屈強な私服警官のSPが周囲を取り巻いている。ニッポンの警察もこのSPの配置には随分と気を使っているようにみえる。ミスター・ポマードと呼ばれ、顔のアブラギッシュさとは裏腹に経済政策にやや慎重気味だった政治家は、身長面でも小柄だったが、それに合わすようにSPも小柄系屈強で固めていた。そこへいくと土井たか子は大柄であり、SPもそれに合わすように大柄系屈強となってくる。ということは単なるミーハーでは近寄れない。ところが、有名人に近づいてみたい、できたら触るか握手の一つもと考える市場のおばさんのパワーは、蟻一匹這い出る隙間もない厳重な警備陣をいとも簡単に突破したらしいのだ。

何しろ魚、肉が商品の市場であるから、当然のように切れ味鋭い包丁などがある。警備陣からすればこれほど危険な場所はない。ゴルゴ13クラスだったら、逆に見分けやすいのだろうが、普通のおばさんというのは見極めがどうにも難しそうだ。

プロレス少年は突進することで目的を成就する。おばさんたちも突進することで目的を達成する。世界に誇るニッポン警察だったが、結果は完敗であった。おばさんたちはスルスルと世界の中田選手が送るスルーパス状態を受けて、土井ゴール前に殺到した。そして、恐怖の撫でまわしをはじめたという。頬を両手で撫でまわし、「あいーっ、ちゅらかーぎー」とか、無遠慮にさすりながら「はっさ、ツルツル肌だねー」とかなんとか。それはほとんど、沖縄の宝塚とも称され、沖縄芝居のアイドルを生み続けた「乙女劇団」の芝居の鑑賞状態であったという。乙女劇団は歌劇が多かったが、沖縄女性は過激が多いのかもしれない。

いまや東京にしかない、沖縄的沖縄顔。

 

 

うちなー的沖縄

いまや東京にしかない、沖縄的沖縄顔。

所要があって東京に行ってみた。ひとつは娘の大学受験に付き合ったこと。後のひとつはCD制作のためだった。(と、とりあえずは予告宣伝的)。たまに沖縄みたいなこころから出掛けていくと、東京は面白いところである。なんだか一番に近い外国だという印象すら持ってしまう。外国での、たとえ短いパック旅行でも食べ物や言葉には不自由する。それからすると相当に楽なところである。これは随分前に女性雑誌での「旅先での失敗談特集」みたいなもので見た話し。せっかく外国、憧れの外国、それも初めての外国。地元の素敵な男性に声をかけてコミュニケーションをはかるべく、まずは中学校で教わった基本的かつ簡易な英会話を駆使してみた。英語の先生からは「勇気をもって会話すれば旨くなる、絶対に通じる」と教わった。そして記念的な第一声を発した。「はぅ・まっち」と。

相手の外国人は驚いて逃げた。いまほど不況ではなく経済が絶好調の時で、エコノミックアニマルと言われていた頃だ。「ナンダ、コノ女ハ。金デ男ヲ買イ求メ二来タノカ」と想像したことだろうよ。

その点、TOKYOは都合がいい。言葉は完ぺきに通じるし、それに食べ物だって比較的だが口に合う。電車だってはまごつくが慣れてくればたいしたことはない。

羽田で降りて、モノレールで浜松町へ。そこからJRで渋谷に向かった。混んでいた電車でのこと。明らかに顔の濃い集団がいた。二十三、四歳の七、八人の若い女性集団だった。この顔の濃ゆさだが、華人系ではないし、コーリア系でもない。もちろんジャポニカでもない。かといって東南アジア系でもない。それをぜーんぶチャンプルーにしたような混合系なのである。目鼻立ちがはっきりしているし、それに何といっても言葉だった。車両中に響くくらいに沖縄らしさを巻き散らしていた

どうも同級生の結婚式があって、ある地方から集団で東京に出てきたという感じである。おそらく沖縄系に違いないと妙に確信していたら、ついには決定的な単語が出てきた。「でーじ綺麗かった」とか「面白かったわけよ」などが混雑する車両を制圧していた。

顔が濃いと書いた。これはすばらしいことである。華人系にしろ、コーリア系にしろ、ジャポニカ系にしろ、どちかかというと顔に確固たる主張はない。ところでこの「でーじ」「わけ」娘達たるや、いずれもモデルではないかと思えるような一群だったのだ。これで純沖縄の言葉に徹すれば、いよいよ国籍不詳になったはずである。

言葉で思い出したことがある。東京に住むある県人から聞いた深刻な話である

 

いまや東京にしかいない、沖縄的沖縄顔。-2

 

うちなー的沖縄

いまや東京にしかいない、沖縄的沖縄顔。-2

仮にAさんとよぶ。彼が東京に移り住んで二十数年になる。こつこつ働いて念願のマイホームを手に入れた。並大抵のことではなかったという。それはそうだろう、ゼロからのスタートで、人には言えないほどの苦労は多かったはずだ。(ということを実際に言ってはいた)。言葉一つとってみても、いかに東京という異境に慣れ親しむにに苦労したことやら。数年は気を付けているつもりでも、ついつい沖縄言葉が発せられる。それをやっとの事で克服したわけだ。それはマイホームの夢と並行するようなもので、ついには言葉そのものも獲得したのだった。

その彼だが、言葉そのものは「しちゃって」調で立派な東京弁なのだが、顔つきだけは無修正だった。これだけはどうしようもない。医療保険のきかない形成外科に行ったって、顔の骨格そのものがウチナージラー(沖縄顔)であり、哀しいかな顔の骨格まではかえられないのだ。

言葉、マイホーム、それも仕事もまあまあである。顔つきに少々の不満はあっても幸せであった。ところが不幸は、前触れなくいきなりやってくる。

例の沖縄ブームてやつだ。「復帰」の頃から、ときどき大波でブームが訪れる。あの時は栽監督率いる沖縄水産高校の活躍。あるいは安室の活躍など。沖縄がバンナイバンナイ(バンバン)露出していた。それは苦節二十数年のAさんにとっても嬉しい限りであった。水産の時はテレビの前で久しぶりにヒーヒー小(ぐゎ)(そう

指笛)も吹いてみた。涙もヒーヒー小などで、久しぶりに沖縄ナショナリズムに目覚めたりもした。しかし「俺は東京でしか生きられない男になってしまった」という思いもある。丁度、その頃からだ、おかしくなったのは。ナニ、池澤夏樹が沖縄移住だって。ナニ、宮本亜門が沖縄移住だって。ナニ、澤地久枝が沖縄移住だって

東京人になりたくて努力に努力を重ねてきたのに、どうして東京人達は東京を捨てて沖縄に住むのだ。Aさんの嘆きはしばらくは続く。