THE HUHATU-DAN

 

 

 

うちなー的沖縄

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不発弾。その名称からして何とも不気味な存在である。これをコレクションとして持とうという気にはなれない。ところで、北九州にある

泡盛屋で見かけた時の話だが、立派な不発弾が店に飾られていた。知らずに不発弾を背にして坐っていたら、これは「不発弾ですよ」と店の主に教えられ、途端にマブイ(魂)をポトンと落としてしまった。

沖縄があって、地形が変わるほど米軍が砲弾を撃ち込み、それに対抗するように日本軍も撃ちまくった。その結果がこれだ。不発弾の処理には、あと五十年も要すると自衛隊関係者が言っている。質の悪いことに、目に見えない地中深く眠っているというのが不気味ではある。

そこで今回は不発弾に関する話題を2題

[不発弾2題。その1]

ある日、家に帰ってみると郵便受けに、なんの色気もないチラシ枚。

「金城ダムで不発弾が発見されました。○月○日○時から撤去作業を行いますから避難して下さーい」みたいなチラシである。

沖縄全体では日常茶飯事ではあっても、いざ自分のところだと、そう

頻繁にあるわけではない。「親父1人を残して逃げたのか―っ、お父さんは不発弾の餌食にされてもいいのかぁー」と一瞬は不信感を持ったが、よく考えてみたらボクを除いた家族は昨日から小旅行に出掛けた。仕方がない、避難誘導の役所職員がやってきてくるまでには避難しておこう。

せっかくの日曜日ではあるから、ついでに遊びに出掛ける格好をして

自宅を後にした。我が家のすぐ隣には小さな空き地がある。その空き地の向こう側にHさん宅があり、そこのおばあちゃんがひなたぼっこでもするように椅子に掛けていた。

「あいっ。おばあさん、ひんぎらなさい(一緒に避難しましょう)」

と誘ってみた。ところがこのおばあちゃんは不発弾作業は知っているが、いっこうに避難する様子はない。まさか戦争中のことを思い出して、「私は自分の家を守りたい」などと考えているのだろうか。

もう一度誘ってみた。

「兄さん、逃げる(避難する)範囲はここまで」と言って、掛けている椅子のすぐ前の地面を指差した。不思議に思って、市役所から配られたチラシを確認してみる。これで全てを納得した。なんと、避難範囲はボクの家の隣の空き地までで、おばあさんの家からははずれていたのである。

不発弾処理の避難範囲はその爆弾の重量による。大きくなければ大きいほど避難範囲が広がる。それにしても半径のラインのすぐ外側の違いは本当に目と鼻のさであった。外れているのをわざわざ逃げる必要はあるまい。2人でひなたぼっこして過ごした。ここだと万が一、

爆発しても目の前までしか飛んでこないはずだ。

「不発弾2題。 その2」

首里の竜潭で不発弾が発見された。首里城跡に琉球大学があった頃である。相当の大型爆弾らしく、かなりの広範囲で避難しなければならない。この不発弾、ひょっとしたらOさんが関係している可能性がある。竜潭と聞いて思い出したのだ。首里城近くの琉大男子寮(現沖縄県立芸術大学)があった場所に元々は沖縄師範学校があり、そこは旧日本軍の第三十二司令部が設置されていた。その関係で、ここら辺り一帯は米軍の砲弾が雨あられの如く降り注がれたところだ。当然のことながら不発弾も多かったことだろう。市役所の先輩あるOさんの自宅は竜潭のすぐ近くである。子供の頃、池の近くにあった不発弾を何名かで転がして水に沈めた記憶があるという。子ども心にも水の中だと安全と考えたのだろう。きっとその時の不発弾だったのではないだろうか。

不発弾処理は、自衛隊の処理班だけが目立ってしまうが、実は市町村職員がその縁の下の力持ちに徹している。チラシ配り、い難誘導のための各家回り、時には土嚢(どのう)積みに加わることも。ボクは琉大女子寮周辺を受け持つことになった。

多分、独身時代の頃だったと思う。なにしろ女子寮である。あこがれの女子寮といっても過言ではない。恐る恐るではなく、どちらかというとワクワクしながら玄関口に立った。ところがこちら側の甘い期待とは裏腹に、ファスナー代わりのボタン式のジーンズ姿で、それに2列に穴がずらりと並んだ太いベルトをした小柄の女性が現れた。「私は寮長ですがあなたは誰の許可を得て寮に入ってきたんですか」ときた。誰の許可って、玄関まで入ってこないと話もできないのに、とついつい口を尖らせて役所言葉でしゃべってしまった記憶がある。不発弾の爆発は人を選ばないのにね。