一九七八年七月三十日 午前0時の大混乱。

 

うちなー的沖縄

一九七八年七月三十日

午前0時の大混乱。

「Wの悲劇という小説があって映画化された。730(ナナ・サン・マル)の悲劇というのもあった。一九七八年七月三十日午前0時を期して、交通区分を一気に変えてしまったことによる。

沖縄は一九七二年までアメリカが施設建を握ってた。その関係で、貨幣もドルだった。ボクが小学生の頃だったと思う。そこには米軍のMPがカービン銃で武装して不測の事態に備えていた。大人たちがひどく緊張してマネーチェンジしていた。ボクも大人たちに伍して、家の後ろのバナナの幹を削り込んだ秘密金庫(バナナ幾重にも皮があり、表面だけを残し空洞にする)から持ち出した、ワタシグヮーを握りしめて並んだ記憶がある。おばぁたちは、ドルという言葉がなかなか言えなくて、「ロル、ロル」、セントのことを「シェン、シェン」と発音していた。

ドルがそうであったように、そして交通区分もアメリカ式だったのである。つまり

車は右側を走っていた。交通区分は一国一制度が原則らしく、それまで慣れ親しんだ方法が変更されることになった。

おかしなもので、当時はそれほど考えもしなかったが、あと後になって首をひねることになる。一国一制度はいいとして、そうして沖縄が全国に合わす必要があったか。沖縄以外の全国が沖縄に合わせてもよかったのでは。一見、無茶のようだが実はそうでもない。そもそも沖縄のほうが世界的であった。日本の、車は左側路線というのは世界的に見れば圧倒的に少数派であり、小が大を飲み込む構図になっていた。これをやっていれば、海外に出かけた沖縄の人間は相当に危険ない目に遭っている。右だったのが左になり、海外では再び右に。もう、こうなるとグシャグシャになって、何が何だか判断がおかしくなるのは当然であろう。

とにかく一夜にして区分が変わるということはどういうことなのか。いろいろな不憫さが生じてくる。考えによっては、それまでの沖縄の車はほとんどが外車並みの

左ハンドルであった。車窓から腕を出して、左腕を日焼けさせるのが若い人にとってはステイタスだということを耳にしたことがある。ところが沖縄ではそこらへんのニーニー、ネーネーに限らず、たとえそれがおじさんでも、おじぃでもおばぁでも左腕を窓の外に出す分だけ日焼けしていた。

ところが普通の車はヘットライトの角度を調整してどうにかなるにせよ、バスだけはどうしようもなかった。出入り口がまるで逆になる。これだけは解決の方法がなく、バスの全てが新車になった。全てが新車になれば、当然のことながら中古車があふれる。それは忽然と沖縄から消えてしまった。やがて中国を旅行した人たちから、「万里の頂上付近で見かけた」とか、「福州市の街を走っていた」とかの情報が伝えられてきた。まるで池澤夏樹も「マシアス・ギリの失脚に出てくるようなシーンだ。外国では都合がよかったわけだ。