嘉手納のおじいと嘉手苅のおとぅ

 

うちなー的沖縄

嘉手納のおじいと嘉手苅のおとぅ

親しい友人にYさんという人がいる。彼はかれこれ三十数年、人生の三分の二を

東京という異境の地で過ごしていることになる。東京に行くたびごとに泊めてもらっているし、娘が受験の時も世話になりっぱなしであった。

そのYさんが学生時代に沖縄に帰省したときのこと。彼の帰省に合わせて東京の友人たちも沖縄に遊びに来た。沖縄初体験はこうゆう形も多い。丁度、旧盆に合わせていた。旧盆であるから親戚回りを行う。友人たちもおのずと同行することになった。

沖縄の旧盆は地域によって若干の違いがあるが、おおよそほぼ同じ形式である。旧暦の七月十三日にウンケー(先祖霊のお迎え)で、十五日にウークイ(送り)ということになる。その間、先祖が喜びそうな、実は生きている人も喜びそうな御馳走をつくり、トートーメ(沖縄式仏壇)にお供えをする。先祖が食べたかナー、と思えるころにウサンデーといってご相伴に預かる。子ども心にこれが待ちどうしかったものだ。

初日はウンケージューシー(お迎え用硬め雑炊)で、二日間の中日が素麺や団子、そして送りの日がオキナワン料理オールスターみたいな重箱料理が出た。今でもこの基本形は変わらない。最近の子どもがこうゆう料理に見向きもしないのは、いつでも食べられるからかもしれない。貴重な御馳走であった。ゆえに盆明けは食べ過ぎなのか、それとも幾度と温め直したりするせいか、やたらとワタグルグルー(腹を痛めてグルグルーする様子)する子どもが続出していた。

Yさんと東京から来て友人たちは共に親戚回りをした。おそらく旧盆の最終日であったと思われるが、嘉手納でのこと。親戚のおじいさんは寡黙であったという。本当は寡黙ではなく口下手だったのかもしれない。寡黙と口下手は同じようで実はそうではない。

今でもときどき見かけるのだが、思考法がヤマト口ではなく、沖縄の言葉で組み立てるお年寄りがいらしゃる。例を挙げると、「そこへ行くから」というのを「そこへ行くから」と表現してしまう。これなどは沖縄方言の直訳そのものから来ている。近しい親戚の子が友人たちを連れて遊びに来ている。礼儀として何か声をかけるべきなのだが、どうにも口をついてこない。

そのうち盆用の料理が出される。一緒に食べている間も沈黙の空気は流れ、暑い沖縄での扇風機を果たしていた。せっかく訪ねて来てくれたのに。嘉手納のおじいさんは少々焦っていた。何か声をかけなくては。

おじいさんが声をかけるべく、脳で組み立て始めた。<ヤサヤサ、マジェー、シシカラヤサヤー。トー、カマブクンマーサンテー(そうだそうだ、豚の三枚肉に手を出した。いいぞ、いいぞ、蒲鉾もおいしいぞ)>。友人たちは次第に料理へ箸を付けだした。誰かが揚げ豆腐をゲットした。

まさに、まさにその時だった。