嵐を呼ぶ沖縄の結婚披露宴。

 

うちなー的沖縄

嵐を呼ぶ沖縄の結婚披露宴。

沖縄の披露宴について以前にも書いたことがあるし、他の機会でも何度か書いたことがある。今回も結婚披露宴について書くが、少し違う角度から見てみよう。

台風6号は日本列島の太平洋側に沿って北上し猛威を振るったが、続く台風7号も間髪いれずにやってきた。そもそもこの台風7号は妙な奴で、かなりの意思を持った台風であった。6号の軌跡をまったく同じようにたどるという、まるで犯人を尾行する刑事みたいな奴であった。普通の台風だと数日前から生暖かい風を吹かせ、人々の皮膚感覚に台風が近づいていることを知らせる。ところが7号は何の前触れもなく、夜這いでもするかのようにそーっと忍び寄ってきて、そしていきなり沖縄に襲いかかってきた。

4万5千5百世帯が転電に見舞われ、空や船の便にも多大な影響を与えた。風圧はいよいよ強まり、道を歩くのも困難を極めた。足は前へ出るのだが身体全体は進めない。タクシーに乗っていても底から持ち上げられるような振動に見舞われた。それでもある目的で外出をしなければならない事情があった。

「この度、私達はかねて婚約中のところきたる7月14日に結婚式を挙げることになりました」という案内状が届いた。職場の同僚同士の結婚披露宴であった。そしてその日、台風慣れしているはずの沖縄の人間でもかなり躊躇するような強風が吹いていた。しかし困ったもので、たとえ風が吹こうが嵐がやってこようが、いったん決まった日取りの変更は不可能であるらしい。会場であるホテルの都合もあるのだろうか。それとも花も嵐も踏み越えて結婚するのだという新郎新婦のみなぎる決意だったのか、とにもかくにも披露宴は嵐をついて決行されることになった。

嵐を呼ぶ沖縄の結婚披露宴。-2

 

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嵐を呼ぶ沖縄の結婚披露宴。-2

大雨と強風対策の格好でホテルまで出向いた。こういうとき、革靴なんて愚も骨頂である。そもそも靴下が濡れて気持ち悪い。それなりに相応しい格好というものがある。いわばTOPということ。足元は当然のことながらビーチサンダルが最適である。リュックにスーツとYシャツにネクタイ、それに靴と靴下と祝儀袋の一式を入れて、その上から大きすぎるほどの雨合羽で身を包んだ。以前にバイク通勤をしていた頃は、大雨には常にそのような格好で臨んでいた。着替えのためにホテルのトイレに急いで駆け込む。なんだか制服から私服に着替える女子学生の気分であるし、ジェームスボンドが海から這い上がってきてウエットスーツを脱ぎ捨てスーツ姿に変身する感じで、こういう格好はけっして嫌いではない嫌いどころか、どちらかというと好きの属する。それらしく服装を整えて会場へと入る。それにしても招待された人々は偉いなと関心をする。雨、風をはねのけて会場入りしている。指定させた席に坐ってユンタクしていて妙な話に驚いた。

台風の日の結婚披露宴への出席率は、平素のそれよりも高いのだという。ふーん、そうなのか。意外な感想を持った。「これだけの風が吹いているのだし、ひょっとして誰一人として出席しないのでは。私一人でも出席しなくっちゃー」精神みたいなものが、実は全員の共通認識のようである。それと日常でない、つまりハレの日は大雨や嵐がつきものである。これは沖縄近代史におけるエポック現象でもあるのだ。これまで、ややもすると結婚披露宴は、そこで行われる沖縄的な披露宴芸に目を奪われがちであった。だが、沖縄における結婚披露宴の神髄は、花も嵐も踏み越えて出席する心意気であることに気づいた。

外はあいかわらず嵐が吹いているようだが、会場内は和やかな風が吹いていたなかでも、親父が嫁いでいく愛娘のために自作の歌詞で古典音楽曲を披露した。何しろこの父親の肩書が凄い。「国指定重要無形文化財組踊保持者」メモでもしなければ覚えられないくらいの、いかにもという感じの存在感があった。

心待ちし居たる

果報ことや叶て

今日のよかる日に

結ぶご縁

と、この娘なら目に入れても痛くないだろうなという感じで、祝いの旅立ちを謡いあげていた。このお父さん、きっと式の頃は台風を心配して、「風の声も止まれ、波の声も止まれ」とばかりに心の中では謡っていたはずである。

披露宴が続いていた2時間半の間、台風情報がまったくない。楽しい披露宴ですっかりとシャバのことは忘れていた。宴が終わりホテルを出ると、風が止み、雨も止んでいた。新婦お父君の「風の声も止まれ、波の声も止まれ」の効果があったのかもしれない。

沖縄全域が年初めからの少雨のために、台風襲来を持ち望んでいた節があったから一般的には歓迎された台風であった。再び元の正しい台風服に着替えてホテルの玄関口に立った。うねっ、いつのまに台風は去ったのかと錯覚をした。あれほど吹き荒れていたのだが、ピタっと止んでいる。一瞬だが自分の置かれている立場を失ってしまった。台風の目にはいったのだ。台風の目を見るのは久しぶりのことだ。この日は雲に覆われていたが、いじぇんに見たときには実際に青空がのぞいていたくらいだった。7,8年前に体験した台風の目は、自宅の孟宗竹の先っぽが完全に停止していた。日頃の無風状態でも常に微妙な揺れをしていたのだが、まるで真空状態で止まっていた。台風の目というのはそういうことである。せっかく苦労に苦労を重ねて出席した披露宴であるから、いつものとおりに二次会に出かけた猛者連もいた。この連中は、台風が去ったあとにきっと悲惨な目にあったはずである。ところで玉O淳郎クン、T屋A子さん、御結婚おめでとう。

沖縄の甲子園球児たちは、なぜ笑うのか。

 

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沖縄の甲子園球児たちは、なぜ笑うのか。

ガッツポーズのたびにジャンプがセットだった。今年の春の選抜高校野球における宜野座高校の活躍シーンでのことである。

とにかく、やたらとガッツポーズがきまっていた。このガッツポーズ、私の記憶が正しければ、メキシコオリンピックにおける水泳競技で、USA競泳陣たちが次々と右腕を振り上げての頃がはじまりではなかっただろうか。それ以来高校野球でも取り入れられたはずだ。ポテンヒットでもガッツポーズ、相手のエラーでもガッツポーズ。全国いたるところで、右こぶしがファーストフード店に向かって突き上げる時代があった。

宜野座高校のそれは、「あれよ、あれよ」の快進撃であった。ここのところ沖縄は、正直言って一勝くらいでは満足しない県民性になってきている。しかしむかし、それほど遠くない昔、沖縄の高校野球は悲壮感に満ちあれていた。それが、崔監督率いる沖縄水産高校の快進撃以来、悲壮感が躍動感に変化してきた。

沖縄水産が2年連続の決勝進出。浦添商行がベスト4、そして沖縄尚学高校はついに全国の頂点に立った。わずか2年のことである。

それにしても宜野座高校はすごかった。春の選抜大会は、各ブロックから選抜実際には優秀な成績をおさめたチームが出場することになっている。宜野座は九州大会でシ出場枠のベスト4には惜しくも届かなかったが、「21世紀枠」という不思議な制度で出場をはたした。テレビのアナウンサーは耳障りなほど、「21世紀枠、21世紀枠」を連発していた。

沖縄の甲子園球児たちは、なぜ笑うのか。-2

 

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沖縄の甲子園球児たちは、なぜ笑うのか。-2

なんだか、沖縄は特別だからねー、といわれているようでもあった。ところが、沖縄の実力は相当なものらしいとあらためて確信した次第。

なぜ、最近は沖縄のチームが強くなったのか。ここらあたりを探してみたい。昨年、月に向かって打て打て法や、左利き捕手・三塁手などで話題をさらった那覇高校野球部員の将来の就職希望は「公務員」や「職員」が多かった。一方常時プロ野球選手を輩出している関西の高校チームの職業希望は一様に「プロ野球」と紹介された。これでは、予備校的な存在である。詳しいデータが手許にあるわけではないが、沖縄は圧倒的に公立高校の出場率が高いはずである。これらあたりに一つの秘密が隠されているのかもしれない。

何が秘密化というと、ある意味では無欲で甲子園の土を踏んでいるということだ。無欲だとどうなるのか。笑うのである。とにかく笑うのである。

笑う姿に2種類ある。一つは作り笑いってやつ。緊張感を和らげるためにひたすらニコニコすること。たしかに監督がニコニコしているシーンをよくみかける。これは実際にはテレビカメラを意識している面もありそうだ。試合が終盤までもつれ込んでくると笑顔が消えて厳しい顔に戻っていったりする。おそらくはこの表情が本来の姿という感じがした。練習の時はかなり厳しいはずである。そうでないと甲子園にはなかなか出れないだろう。

那覇高校も沖縄尚学高校もそうであったが、宜野座高校はどうしてあんなに笑っていたのだろうか。地元沖縄の新聞にも、全国紙にも、そしてスポーツ新聞にも「笑顔」という文字が踊っていた。笑顔だけでベスト4まで勝ちすんでいた。考えてみたら不思議な仕草である。

沖縄には「恥かさー」と言う言葉がある。「恥ずかしがり屋」と言う意味、または「はにかみ屋」でもいいだろう。これが全国共通かどうかは知らぬが、沖縄の生徒たちは教師などから叱られたりすると、まずは笑う習慣があるのである。そういうこともあって、甲子園で失敗しても、満面の笑顔でペロッとベロをだしたりする。奥濱監督の指導は「自立」と「自律」だったと何かに書いてあった。けして「笑顔いっぱい」ではなかったが、あの笑みである。

野球に限らず、最近は指導者に恵まれているような感じがする。以前は逆に指導者不足が指摘されていた。沖縄はボクシング王国でもあるのだが、コーチたちはリングで闘っている選手に対して「クルセー、クルセー」と檄をとばしたらしいのである。これはかなり危ない言葉である。直訳すると「殺せ、殺せ」ののだ。つまり、「殴れ、殴れ」なのだ。それにしてもストレートパンチすぎる表現ではあるな。

ヒットを打ったりしたら率直に喜びを表現することは大切なことだ。大リーグで活躍する野茂やイチローの表情はイマイチわかりにくいのではないだろうか。その点、宜野座高校はわかりやすかった。

なぜ、笑うのかをもっとコーサツしてみる。これって、沖縄が甲子園ではいつでも負けていた歴史があったことも一因ではないか。一勝でもすればラッキーと思う過去であったのが、たとえ「21世紀枠」だろうが勝ち進んでいる。強くはなっているものの、勝てばラッキーという謙虚さだけが残っているのかも

沖縄人のごく日常的カルチャーショック。

 

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沖縄人のごく日常的カルチャーショック。

那覇市内の食堂でのことばのだが、客は明らかに沖縄の人間ではなかった。会話はサッカーの試合のように、ハーフタイムを挟んで前後半に分かれていた。まずは前半の攻める客と防御の店員の会話。「ざる一枚」

「はーっ!?ざつをですかぁ、ざるを一枚ですかぁ」

「ざる、ざるそば一枚、だよ」

「・・・・・!?ざるそば一つのことですかぁ」

「・・・・・」

店員さんは、<はじめからそう言えばいいのによ>という表情があり。客は少しムッとしているようだ。下手をするとざるそのものを出されかねないような会話であった。

攻めあぐねる客、守りに不安な店員だった。続いて、攻守ところを変えての後半戦。サポーターたちは自分の注文した品を食べつつも、どこかで乱闘シーンを期待している「そば湯、ね」「はーっ」「そば湯、そば湯をくれ」店員は小首をかしげながらお茶を運んできた。ややムッとした客は、「そば湯だよ、そ、ば、湯!」「そば・・・・ゆ・・・・ですかぁ。何ですか、そばゆって」「そば湯を知らないの、あきれたなぁ。もういい!」客は心底からあきれたような顔をして店を出て行ったが、店員はその三、五倍くらいにあきれた顔をして、<変な客>という表情で客の後姿を見送っていた。

沖縄の食堂のメニューの特長は、とにかく品数が多いということだろう。極端な食堂ともなると、壁一面どころか壁二面にメニューがあふれ、ついには壁三面という過激な食堂もあったりする。どの席からも見れるようにということなのか、同じメニューが顔を並べている場合もある。壁のメニューがインテリアになっていたりする。

沖縄ものだけにこだわればいいのだろうが、客のニーズに応えるためにと準備されたのが、ざるそばであったりするわけだ。沖縄では、そばと言えば沖縄そばのことであり、本来の蕎麦ではない。

永年にわたって沖縄そばに慣れ親しんできた沖縄人の悲劇的は数多く存在している。東京あたりに初めて出掛けた沖縄の人間の失敗談は、このコーナーの分量からしたら、おそらくは数十回分に及ぶことになるだろう。電車に向かって手を挙げて停車を促した人。電車内で降車ブザーを必死に探した人。古くは洗濯ひも時代の頃のバスを想定して壁をまさぐった人。大阪での「指切り注意」という電車ドアの表示に心の底からしびれるようにして恐怖した人。

 

沖縄人のごく日常的カルチャーショックー2

 

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沖縄人のごく日常的カルチャーショックー2

とにかく異文化ののである。電車話とおなじくらいの比率を占める割合が高いのが食べ物に関すること。ざるそばの上につゆをかけたという話は方々で聞く。究極のざるそば事件を引き起こしたのは某有名人である。蕎麦屋に入ると、昼間だったのだろうか、他の客はほとんどがざるそばとビールを注文している。昼からビールを飲むなんて。沖縄ではあり得ない光景である。初めてのことだし、同じものが何かと都合がいい。これは外国でも同じことがいえるのだが、とにかく異質の文化圏での食べ物の注文は困難を極める。出されてきたざるそばに、何らも躊躇することなくつゆをかけた。当然のようにつゆはざるのざるの隙間から漏れてくる。漏れ方が普通の漏れ方ではない。見る見るうちにつゆがテーブルにつゆが広がる。常人は、ここで、自らの失敗に気付きうろたえる。ところが、我が愛する人物はすかさず、「おばさーん、これ、漏っているよぉ」と店員に声をかけたのである。おそらくは店の人がうろたえたに違いない。普通だったら笑って済ませるところを、いきなり漏れていると言われればカウンターパンチを喰らったも同然だ。カルチャーショックを受けたのは某人物ではなく、ここでは店の人だったに違いない。

逆のケースもある。冒頭のざるそば一枚もそうなのだが、東京のあたりからの観光客が沖縄の食堂に入っての失敗例はけっこう多いと聞く。「おかず」と「味噌汁」と「飯」をトッピング状態で注文したら、「おかず」と「汁物」と「飯」、おおきな「味噌汁」と「飯」、それに大盛りの「飯」が出されたという具合だ。それぞれが定食のスタイルをとっているせいである。客は当然のように驚き、ひとり自嘲気味に片口笑い小するしかない。そして沖縄の印象の一つに食べ物屋での恐怖が残る。

あっ、某有名人たちが、それは大工哲弘さんが二十歳の頃のこと。

 

タックルされて死亡。

 

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タックルされて死亡。

世界中には、ミニ国家が数多く存在してる。モナコであるとか、ヒリテンシュタイン、ブルネイ、モルジブ、サンマリノとかだ。約二万人くらいだ。人口数からすると、なんだか頼りない感じがしないでもないが、それはそれで意外といいかも。コミュニケーションの面からすると、風通しがよこなるはずだ。国の端っこに居ながらも、Aさんちのおかずは昨晩も豆腐チャンプルーだったとか新婚さんのBさんちは那覇空港離婚どころか、経由地の関空離婚らしいとかなんとなくゴシップが満ちあれていそう。そうなんだ、狭い会社にこそゴシップは相応しい。

それはそれで必ずしも悪いことではなさそうだ。極小ではあるゆえの痛快さもある。

ミニ国家ながらも独立を保ってきた琉球は、全国から遅れること八年、一九七九年(明治十二年)に廃藩置県がなされ沖縄県となった。沖縄戦の後に、二十七年間に及ぶアメリカが君臨する時代があったから、沖縄が日本であった歴史は、差し引くと約九十年。つまり沖縄が四十七分の一の歴史を数えてわずか九十年でしまないというのが面白い。それ以外は異質だったということ。そういうことは、いろいろな場面に「沖縄的」現象が首をもたげてくる。それは、ときには哀しくも、しかし、ほとんどが笑える場面の多い。喜怒哀楽は背中合わせの世界であり、それが「沖縄的」なシーンをしばしば醸し出す。

例えば、言葉など。これは沖縄の人間がヤマトで新聞を広げた途端にびっくりしたケース。新聞には「タックルされて死亡」と見出しが踊っていた。ラグビーは格闘技であり、本来が激しいスポーツののだが、練習中にタックルされて首の骨を折ったのだろうか、死に至ったというものだ。ところが沖縄出身のKさんは違う受け取り方をした。彼女は「タックルされて死亡」したと理解した同じ、「タックルされて死亡」どもこれほど違う。んっ、まったく同じか。

沖縄では相手を叩きのめすことを「タックルスン」と言う。漢字を当てはめると少しはわかりやすくなる。叩き懲らしめる、という具合になる。叩く、打つ殴るという意味だ。この言葉はしばしば問題となることが多い。それは叩き殺すになるからだ。懲らしめると殺すとでは傷害罪か殺人罪の違いがあり、刑法からすれば天と地ほどではないにしろ、相当の違いが生じる。だかr、ラグビーの方は、練習中の事故による「タックルされて死亡」であり、Kさんが勘違いしたのは、懲らしめられて後に死亡の至った「タックルされて死亡」だったのだ。

言葉は文化だと言う。確かにそうだ。沖縄の人間が正確な日本語を話すようになってから、わずか九十年を長いと見るか短いと見るか、実はそこに沖縄の面白さや可能性がゆったりと潜んでいそうな気がする。

那覇の女子高校生は、カモチャーに乗って御通学。

 

那覇の女子高校生は、カモチャーに乗って御通学。

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路上観察の対象として女子高生ほど面白いものはない。

あのルーズソックスは大嫌いだったが、それでも最近は落ち着きを見せてきており、健全なおじさんとしては再び落ちついての観察を開始している。それにしてもルーズソックスの全国的な流行には嫌気がさした。没個性、画一的であり、スーパールーズソックスにいたっては、軍隊のゲートルであり女子高生の軍靴の行進であった。おじさん族をはじめとする全国民は、あんなの見たくないという声を出すべきではなかったのか。

陽は上り陽は沈む。ルーズソックスが終焉を迎え、カラーソックスが路上を闊歩しだした。沖縄も例に漏れず流行を追っている。かつて沖縄の女子高生は堂々とカラーソックスを使用していた。東京あたりから修学旅行生が沖縄を訪れて、当然の事ながら国際通りを歩く。そこで彼女たちが最大の衝撃を受けることになる。「えーっ!うそーっ、信じられなーい」の連発あっただろう。沖縄の女子高生の足元は、多彩な個性を発揮していたのである。それはソックスは白という常識を根本から覆すものだった。ところがここの一つ問題が。ルーズソックス・ファシズムの嵐が吹き荒れる中で、自ら沖縄的個性を捨てての全国均一化への転落は、まさしく沖縄女子高校生たちの敗北であったと思う。

Kiroro,Coccoの後輩たちよ、君たちはそれでいいのか。と、おじさんの怒りはいよいよ止まらない。いやいや、そうではない、沖縄の女子高校生はすこぶる元気だ。それをひとつ証明してみる。

フィリピンに庶民の足ジプニーあるが如く、インドネシアのジャワに自転車を改良したベチャあるが如く、沖縄には世界に誇る軽貨物車という摩訶不思議な乗り物がある。貨物車というくらいだから、主たるものあくまでも荷物ということになっている。荷が主で人は従。

その軽貨物車が抜群に面白い。

荷物のことはさておき軽貨物車は、基本的には運転手を含めて四人乗りである。ということは乗客は三人までということになる。朝の通勤時間、グループの中ではわりと美少女風の高校生が軽貨物車に手を挙げて停める。まず三人乗り込むのだが、それまではどこにどう隠れていたのか。あと二人が、どどど、どどどど、と突入してくる。定員超過ではあるが、でも、それでもいいのである。この手法はタクシーでも用いられるが、その際にはせいぜい一人超過くらいのものであろう。その点、我が軽貨物車は、車は小さいが度量は大きい。一人や二人は大きな荷物と思えば平気なのである、なにしろ、普段の沖縄のおばぁが常連客であり、少々のオーバーは気にならない。

軽貨物車イコール庶民的というのが常識であり、おばぁのみならず、そこらあたりの女子高校生からも支持されているのだろう。高校生諸君からは「カモチャー」と親しまれているくらいなのだから。例えば、雨の日。親切なおじさん車は、肛門を突破して校舎のすぐ側に横付けしてくれるとか。何とも素晴らしいではないか。通学時間帯だけではない。南の島のスコールは授業中にも降る。そうなると傘を準備していないだけに帰りが心配である。ところが心配御無用なのだ。実は高校生と軽貨物車のおじさんは以心伝心ホットラインで結ばれている。実際には電話なのだが。携帯電話とピッチ(PHSの愛称)は互換性を持つようになって、いよいよ結束は深まった。以前に利用したとき、おじさんは次のため用ように、携帯電話番号入りの名刺を配っている。

「もしもし、おじさーん、ワタシ、○△高校のさわやかだけどさー、んーんー、違う、ちーかーじゃない、さやかってば。いま雨が降っているわけよー、お願いこっちまで迎えに着て頂戴」

全国広しとはいえども、ここまでサービスに徹っする交通機関があるだろうか。この形態はどうみてもアジア的風景と言える。機械的に乗り込み、機械的に金銭をやりとりするのではなく、そこには同じ地域に住む連帯感がある。地域といえば、軽貨物車は地域限定である。那覇市内の、それもある一定の地域運行主義をとっている。

それほど広くはない那覇市内なのだが、そこの真和志地域という限られた空間を走っている。同じ那覇ではあるが高台が広がる首里などではまず流していない。一度、カモチャーの最大拠点である農連市場付近から自宅のある首里まで家族全員(荷物プラス四人)で乗ったのだが、首里への坂道で車はあえでいた。車は相当にもがいていた。おじさんも愛車に合わせてあえいでいて、随分と気の毒な感じがした。

面白い話を聞いたことがある。ある集まりに、沖縄演劇界の笑いの女王と呼ばれ、庶民から絶大な支持を得ている仲田幸子をゲストとして迎えたらしい。それはかなり政治的な集会だったのだが、通常の街頭ポスターではなく、軽貨物車のみに車内ポスターを貼った。当日、会場は集会とは無縁そうなおばぁ・おばさんたちが詰めかけた、という。カモチャーは沖縄的だ。こうなればジプニーみたいに超派手なペイントをほどこして自らの存在を主張すべきなのでは。白タク行為ではないかと法的に物議をかもしだしているけどね。

 

 

 

 

 

沖縄の1日は24時間ではない、らしい。

 

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沖縄の1日は24時間ではない、らしい。

インドネシアのバリ島が大好きで、よく出かけている。そこには、常にホームステイをさせてもらっている親しい友人のバリンチュー(バリの人)がいて、空港まで迎えにきてくれることがある。いつものところだろうから、「久しぶりだから空港で迎える」と1秒遅れるくらいの国際電話の向こうが言ってきた。

ところが空港でいくら待っても友人の姿は一向に現れない。時間を間違えたのか、日付そのものが間違ったのか。待てど暮らせどこない。ある程度は慣れているとはいうものの、旅先の空港では不安が募ってくる。おまけに外は飛び跳ねて踊るように元気なスコールである。

話は変わって、バリ島と時差が1時間の沖縄・那覇。

那覇市の市民憲章に「私たちはじかんを守りましょう」というのがある。つまり

市民、あるいは沖縄の人間は時間を守らないから、そのような標語が設けられたのであろう。この「時間を守りましょう」については、筑紫哲也さんが機会あるごとに面白おかしく沖縄の人間を前にして披露する。沖縄の側は、指摘されてはじめてそのことに気付くことになる。人々はやや自嘲気味に笑うしかない。確かにかつては公式の行事でさえ、30分や1時間は遅れたものだ。それを「沖縄タイム」と言う。南国的と言ってしまえば、それだけのことであるが、それにしても悪く言えば時間にはルーズ、よく言えばのんびり、もっとよく言えばおおらか、もっともっとよく言えば自由。

インドネシアには、「ゴム・タイム」というのがある。「沖縄タイム」とほぼ同じような意味を持つている。ゴムは自由自在に伸び縮するというわけだ。たしか彼らは時間を弾力的に運用しているとの感を持つ。突然の雨ならば約束の時間を守る義務はないということを、随分あとになってから知った。バリ島の空港で待ちぼうけを食らわせられたのは雨のせいだった。

 

 

沖縄の1日は24時間ではない、らしい。-2

 

うちなー的沖縄

沖縄の1日は24時間ではない、らしい。-2

以前、那覇から鹿児島であるとか阪神方面への定期船の出航が遅れるのは当然のことだった。午後の二時出航だったから、少し早めの時間の一時四十五分頃には家を出るという人もいたにはいた。結婚披露宴に呼ばれて定刻通りに行ったら、他の招待客どころか、主役の新郎新婦さえも未だだという笑い話はそこら中にあふれていた。

沖縄の人間が東京などに行って、定刻通りにホームに入ってくる電車に対して最初はカルチャーショックの洗礼を受けたりする。それは沖縄のバスがあまりにも時間とは無縁の世界だったという事によるかも知れない。バスターミナルの出発時間は守られているのだろうが、後はズタズタ。バス停の時刻表はほとんど意味を持たないという怒りは、おそらくは旅行者の共通した怒りに違いない。原因は慢性的な交通混雑にもよるものだが、どうもそれだけではなさそうだ。

道路事情ということでの遅れなら、両肩をすぼめるような仕草も時には効果的かも知れない。ところが、これはある人から聞いた話なのだが。その人は東京から沖縄に移り住んできている方だったのだが、時間前にバスが発車することだけは許せないと言っていた。それはそうだろう。それが、一時間に一本の路線らしいのだ。思うに、いつも遅れがちなので時には早目にということもあるだろうか。遅く来るバスも困ったものだが、それにもまして早く来て、早く出ていくのも困ったものではある。

ここらあたりで、全沖縄人を代表して釈明をしておかなければならない。「ごめんなさい」でもいいのだが、少し違う話でも。

沖縄の時間概念について語ることで釈明としたい。長いとみるか短いとみるか。

沖縄の人々は、「復帰」前だと、いったんは家に帰ってから酒を飲みに行くというサラリーマンが多かった。狭いながらも楽しい我が家に帰って、シャワーを浴びて(ここは沖縄的に、あくまでもシャワーである)それは一家団欒の夕食を済ませる

子どもたちがテレビの前に坐った頃を見計らうようにして、一家の主は再び出勤態勢を整える。まるでドリフターズのようなセリフで、「宿題しろよ」とか「歯磨きしろよ」などと言い残しつつ出掛ける。那覇だと桜坂か栄町へ、コザだと中の町あたりへ繰り出す。1972年5月15日の「復帰」あたりから様子が変わってくる当時は「本土並み」という言葉が、石ころみたいにそこら中に転がっていた時代だった。「本土並み」であるから、酒の飲み方も自ずと異なってくる。沖縄だからガード下の1杯飲み屋はないが、それでも会社の帰りに飲むようになってきた。沖縄のサラリーマンにとっての「復帰」は、自宅経由ではなくて真っ直ぐ飲み屋に向かうことでもあった。「復帰前はよかったなぁー」という先輩がいる。「遅い出勤」だから、どうしても午前様ということになる。ところで「復帰」後の帰宅時間はどうなったかというと、これが不思議なことに飲み終える時間は同じであったとさ。

インドネシアの時間は伸びるのだが、実は沖縄の時間は長寿県ということになっている。